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銃後奉公会の結成

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 日中戦争が激化したことによって、「前線」の兵士を支援する「銃後」の援護活動を強化する必要に迫られた政府は、それまで個々の立場から活動してきた市町村や婦人会などの諸団体を単一の団体に統一する方針を決定し、一九三九年四月、山口県知事を通じて県下の各市町村に「挙郷一致」の「銃後奉公会」の結成を促した。
 下松地域では、米川村の場合、さっそく同年四月、従来の「出動軍人援護会」を「銃後奉公会」に改組し、全世帯主を会員に組み込み、一戸当たり一五銭の会費徴収で、年間予算を編成して活動する体制に強化している。そのため、村内から軍隊への応召者が増加するとともに、軍事援護事業は多忙化し、四一年には「銃後奉公会」に女性の専任職員を置き、さらに三人の婦人指導員を村内に配置して、一段と援護事業の「完璧」を期した。他の町村でも同様に、「銃後奉公会」を組織して、とくに四一年九月から始められた毎月一日の「興亜奉公日」には、「日の丸弁当」を実践したり、「前線兵士」への「慰問袋」を作成したりして、女性の肩に軍人援護事業が重くのしかかることとなった。
 下松市にあっては、四二年「郷土部隊」に対して、慰問袋五八〇〇個を作成し、応召者全員に、寒中・酷暑・秋季・新年の四度にわたる「慰問文」冊子を発送している(昭和十七年「下松市事務報告書」)。そのほかにも、抜毛の回収や、毛髪の献納運動などが行われ、戦争の激化は、「銃後」の女性を著しく圧迫した。