とくに、同年十月に「防空法」が施行されてからは、各町村とも、防空訓練を実施するようになり、末武南村では、さっそく防空通報設備として、モーターサイレンを取り付けた。同様に山間部の米川村においても、日中戦争が激化の一途をたどったことから、三九年四月には「警防団令」の施行に対応し、二年前に結成したばかりの消防団を解体して警防団を設け、四度の防空演習を行った。さらに翌四〇年には五度も訓練を繰り返し、太平洋戦争の始まった四一年には、国民学校の校庭に「防空壕」を築造して、防空体制を一段と強化した。
灯火管制の強化を徹底させるチラシ(1940年ごろ)
また下松市にあっては、とくに軍需工場が多く、市長と警察署長を中心にして、厳重に防空演習を繰り返し、四一年四月には、若年男女三〇〇〇人で青少年団を組織し、防空活動の一端を担わせた。その後、各地でこの青少年団の防護活動が強められる中で、下松の青少年団は「大隊」に指定され、太平洋戦争の始まった同年十二月には、「臨戦体制強化講習会」を開き、「防空」「防諜」教育や、救急措置、空襲対策、焼夷弾訓練などを実施している。
翌四二年四月以降、現実に「警戒警報」が発せられるようになると、下松市は同年九月、警防団の後援会を組織することとし、その設立趣意書を市民に配布して、年間一円の会費納入に協力を求めている。さらにその後、戦局がますます悪化すると、都市部の防空体制の末端組織として、町内会隣保班による家庭防災群が編成され、焼夷弾攻撃に備えて初期防火の訓練が行われることになった。
下松市では、四三年一月の警防団出初式の分列行進に、市内一六町内会から各二〇人ずつの「婦人モンペ部隊」を参加させ、さらに同年九月には、下松警察署と共催で「婦人の防空戦技」を練磨することを目的に、下松国民小学校校庭において「バケツ注水競技会」を開いている。その方法は、まず各町内ごとに予選を行い、成績優秀な隣保班から五人一組の「モンペ部隊」を編成させ、全市内からの三二組を集めて、これに各工場、警防団、警察署などの「男子部隊」八組を特別参加させ、バケツリレーによる消火を競わせるものであった(「関門日報」九月十日付)。以後、このような防火訓練が日常化し、市民は戦時生活を余儀なくされ、緊密な町内会の人間関係の中で、防空体制に縛られていく。また、空襲に備えるための「待避壕」については、すでに四一年九月の時点で、恒久的な施設を神社境内地に構築することが命じられていたが、四三年十一月には、防空情勢の緊迫化によって、「臨時且簡易ナル待避壕」の神社境内地への造成が、改めて下松市長名で指示されることとなり、たび重なる「警戒警報」の発令とともに、市民生活を緊張させることになった。