下松地域の米川村では、さっそく三七年九月、『米川村報』に「事変国債応募資金」の造成を目的とした「護国貯金規定」を載せ、毎月三〇銭を三カ年ほど積み立てて一〇年間を据え置く貯金を一口とし、一組合員が三口を保有するように勧誘している。末武南村でも同様に、同年十一月の『末武南村報』で、三カ年間に一口一〇円以上の「護国貯金」をし、一組合員三口以上の保有を目標に示して、「貯蓄報国」を迫っている。
また、「国債消化」も「銃後国民ノ重大任務」として、各市町村に厳しい割当が、何度も繰り返して行われた。たとえば、四一年二月の第二〇回国債購入運動で、米川村の場合、米川郵便局からの購入・消化を次のように予定して、村内各部落会に割り当てた。
(1) 支那事変国債(利札付国庫債券) 二五円券五二枚、五〇円券八枚、一〇〇円券六枚、五〇〇円券一枚、一〇〇〇円券〇枚、売出価格による合計金額二七四四円・六七人
(2) 割引国庫債券 該当なし
(3) 貯蓄債券 七円五〇銭券五四枚・二七〇円、一五円券二七枚・二七〇円
報国債券 五円券二九枚・一四五円、一〇円券一〇枚・一〇〇円 合計七八五円(内五〇〇円は婦人会割当分)
(昭和十六年「米川村役場庶務一件」)
戦時貯蓄債券(15円券と7円50銭券)
しかし、日中戦争が果てしなく長期化していたことから、より一層の「国債消化」と「貯蓄増強」に迫られた政府は、四一年三月、「国民貯蓄組合法」を公布し、従来の任意による貯蓄制度を廃止して、市町村区域や、官公署、工場、事業所、同業者団体などごとに、強制的に貯蓄組合を組織させ、市町村をして強力に「国民貯蓄」を推し進めさせることとした。山口県も、翌四月、「国民貯蓄奨励方策」を県内の市町村に通達して、貯蓄趣旨を徹底させるとともに、各貯蓄組合や各世帯ごとに貯蓄目標額を定めさせている。
米川村では、同年七月に、村内各部落ごとに「国民貯蓄組合」を設立させ、四万八〇〇〇円の目標割当額の達成に取り組んだ。下松市にあっては、同年中に合計一一六組合を設立させて、町内会の常会などを通じ、「国民貯蓄奨励運動」を展開した。
その後、太平洋戦争の激化とともに、「国民貯蓄」と「国債消化」の目標割当額は年々増加し、下松市の場合、四三年の「国民貯蓄目標額」を、(1)総合目標額一六九五万八〇〇〇円、(2)国民貯蓄組合目標額四二三万九五〇〇円、(3)国債々券消化目標額一六九万五八〇〇円に定め、貯蓄組合指導員六人を設置し、毎月二回の「反省ト貯蓄日」に「感謝貯蓄」を促したり、「四億貯蓄総進軍」運動や「衣料切符使用感謝貯蓄」運動など、さまざまな貯蓄運動を推進させている(「昭和十八年事務報告書」下松市)。しかし、すでに市民の生活は窮迫しており、隔月に年間六回行われた「国債々券消化実績」は、国債五二万円余、債券二八万円余、国債貯金四八万円余であったが、その合計金額一二九万七九二〇円は、目標額の七七パーセントにしか到達しない状況であった(同)。