太平洋戦争の戦局が日増しに悪化していた一九四三年の夏、大政翼賛会下松支部が、八月一日、朝鮮人への徴兵制実施に伴う「半島壮丁志気昻揚大会」を開いたり、各町内会・隣組の常会が「勝ち抜く誓ひ」を朗唱して、戦意高揚を図ったりした。そのころ、下松市当局にあっても、従来の社会・会計課を廃止し、厚生・警防の二課を新設するなど、行政機構の改変を断行しながら、「決戦即応」の体制を急速に固めて、大政翼賛会下松支部や翼賛壮年団と共催で、「下松市民総進軍動員大会」を計画し、「五万市民の決死敢闘精神」の高揚を図った。
ところが、この「市民総進軍動員大会」は、予定当日の九月一日の夜、警戒警報が突然発令されたため、開会直前になって中止され、会場となっていた中市の妙見社境内は混乱した。そのため、大会を一週間後に延期し、在郷軍人会代表者、農村代表者、工場代表者、弘中伝人市長などの「熱弁」と、市会議長の「宣言」、翼賛壮年団長の「決議朗読」などを、当初の予定通りに行っている(「関門日報」九月一日・四日・十日付)。
また、同八日、下松市在郷軍人会連合会も、下松国民学校で「決戦完勝郷軍大会」を開催して、銃剣術の「一斉刺突」や「閲兵分裂行進」を行い、市中行進して妙見社に「決戦必勝」を祈願するなど、「戦意昻揚」のための行事をこの月に集中させている(同、九月四日・九日付)。さらには、下松市当局と大政翼賛会下松支部は、翌十月十九日から二日間、隣保組織を強化するために「防長総進軍下松大会」を開催したり、十二月には、青少年を「画期的ニ志願セシムル」目的で、「防長少年総蹶起大会」を挙行するなど、市民をことごとく戦争へと向かわせている(村上家文書「令達綴」)。