そのため、花岡村高塚の官祭招魂社を司祭する花岡八幡宮の神官は、四月、内務省令に基づいて「護国神社」と改称することを届け出て、七月には、一七〇〇円の修造費で神殿一棟の造営と木柵の新設などを計画し、翌八月には、村名を冠して「花岡護国神社」と変更している(村上家文書「諸願届并認可書綴」)。しかし、間もなく花岡村が下松町などと合併して下松市となったため、翌四〇年には、「紀元二千六百年祭」の執行をきっかけに、「花岡護国神社」を「下松護国神社」と改称し、大規模な造営計画を立て、祭祀礼典の興隆を一段と図ることになった。
下松市当局は、市長を会長とする「奉賛会」を組織し、「下松護国神社改築趣意書」を作成して、四万五〇〇〇円の寄附を市民から募る目標のもとに、四一年一月から、会社や工場、あるいは町内会ごとに集金して、同年九月までには、会社・工場関係一万六〇〇〇円、町内会関係一万一〇七〇円余を受け付けている(同「請願届類・令達通牒綴」)。こうして七、八月には、一般市民や学校生徒を動員し、その勤労奉仕によって一二〇〇坪の敷地を広げ、翌年八月には参道階段や排水設備などを完成させ、ついに翌々四三年十月三十日、「遷座式」を挙行し、維新以後の「国事」に倒れた「英霊」を合祀した。一方、増加の一途をたどり続けた戦死者の「市葬」については、四五年五月から、「国体の本」に還るという理由で、従来の仏式を改めて、神式で執行する方法を採用している(同「令達綴」)。
下松護国神社(1968年頃)