一九二七年(昭和二)の金融恐慌に始まる昭和大恐慌は、二九年の世界恐慌の中でより一層深刻化し、農山漁村にあっても、農林水産物価格の暴落となり、とくに米価と繭価の下落が農家経済に大打撃を与えたため、不況は農業恐慌の様相を濃くしてしまった。
そのため、政府は三二年から、農山漁民を直接的に救済するための時局匡救土木事業を実施するとともに、農山漁村にそれぞれ恐慌を克服していくための独自計画を立てさせて、自力で経済更生をする運動を展開した。すなわち、まず農村にあっては副業が奨励され、山村にあっては造林が勧められ、漁村にあっては魚市場の整備が行われて、その一方では、累積した負債の整理計画も立案されて、総合的な経済更生計画が実践に移された。しかし、この運動は、とかく精神的な側面が強く、やがて日中戦争が始まると、戦争目的遂行のための「国民精神作興運動」へと転じてしまうことになる。