農業の発達改良を目的とする全国農会は、深刻化する農業の不振を打開し、農村の振興を図るために、県や市町村などの各段階での機構を整備し、その下部組織として、農事実行組合を各地に結成させることにした。そのため、都濃郡農会も、一九三一年四月、「農村振興講話会」を開き、各町村内の信用組合・農会・婦人会などを促して、農事実行組合の結成を呼び掛けている。
すなわち、都濃郡農会は「空前の農村苦」の原因を、米や繭などの農産物が安価であることに加えて、会社や工場の事業縮小で農家の労賃収入が減り、失業者などの帰村で「喰潰し」の人口が増えたことにあると分析し、その上で、「農家の覚悟」として、自給自足を尊び、冗費を省いて借金を避け、共同購入や共同販売を徹底することなどを呼び掛けた。とくに、具体的な農事実行組合の経営方法としては、三〇戸内外で「一人一役」の共同作業や共同売買を実行し、毎月一回ほど「常会」を開き、組合目標を樹立して、婦人の活動や生活の改善などを促進するように提唱している。
これを受けて、下松地域で最大組織の久保村農会は、三二年に各種農産物の増産十カ年計画を立てて「農会是」とし、農産物の共同販売市場を創設する一方で、苧麻耕作組合や採種園組合とともに、農事実行組合を奨励し、翌々三四年六月までに、全村二三組合の結成を完了させた上で、三五年四月には、農会会則でその指導力を高めさせている(『久保村郷土誌』)。
また、下松町農会では、三一年四月に青物市場を設置し、三四年八月には事務所を新築して、菜果品評会や各種の講習会などを開き、農家の経済更生を強力に指導している(「大下松大観」一九三八年)。一方、花岡村においても、農会の指導で、三二年までに一五カ所の農事組合を結成し、米川村においても、三六年九月に「農事組合振興競技会」を開催している。
やがて、これらの農事実行組合は、日中戦争の開始とともに、農村社会の隣保組織として、戦時体制の最末端に位置付けられ、国家総動員の一翼を担わされることになった。