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青果・魚市場の開設

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 一九三一年、米価の大暴落が起こり、下松地域の農家も困窮し、未曽有の農村危機に直面した。花岡村の調査によれば、一九二〇年(大正九)に玄米一俵二〇円一一銭にまで値上がりしていたものが、第一次世界大戦後は低迷して、三〇年には一〇円二二銭にまで値下がりし、翌三一年には一挙に六円一七銭に下落している(『花岡村郷土誌』)。そのため、各町村の農会では、農家に現金収入の途を開くための対策として、一斉に青果物市場を開設し、野菜や果物などの出荷を奨励した。たとえば、下松町農会においては、三一年六月、四年前に開かれた町営公設市場の経営を譲り受けて、常設の青物市場を開設し、生産農家から蔬菜・果物・鶏卵などの出荷を受けて毎日競売に掛け、八パーセントの手数料を徴収して、年々その販売高を伸ばしている。花岡村農会にあっても、同年十月には、花岡尋常小学校前に青物市場を設置し、毎月三と八の日に市を開いている。さらに、翌三二年三月には、末武南村農会が青果市場を開設し、同年六月には、久保村農会も同様に農産物共同販売市場を創設し、毎週月曜日と木曜日に販売の取扱を行っている。

花岡青物市場(1932年『花岡郷土誌』より)

 一方、漁家においても経済恐慌の影響は著しく、各漁業協同組合は、不況の打開のために、魚市場の振興に努めている。下松町においては、三〇年三月、漁業組合が町営魚市場の移管を受け、売上手数料の歩合を一〇パーセントとし、土地建物使用料を年額一二〇円ほど納めながら、自主経営を始めている。下松町も翌々三二年六月には、魚市場と荷揚場の拡張のために、三六〇円の予算でもって、市場地先の新町入川を埋め立てている。
 しかし、その後、下松町漁業組合が、三四年三月に、独自で魚市場を新設したことから、従来からの魚市場は、翌三五年三月に、町当局の直営に戻された(「下松町庶務一件町会会議録」)。また、末武南村においては、二九年に魚市場を開設し、漁業者の売上金額の一一パーセントを手数料に徴収しながら、末武南村魚市場請負株式会社の仲買人を入れて経営を続けた。その後、三四年九月になると、末武南村は、魚市場を別の位置に移転することを決めていたが、村内の末武南・笠戸・深浦の三漁業協同組合が、それぞれに魚市場を開設することになったため、翌三五年四月には移転計画を中止し、六月をもって村営の市場を廃止した。