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経済更生計画の樹立

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 一九三二年九月、政府は深刻な不況を克服するため、地方長官に「国民経済更生運動」の開始を指示した。そのため、山口県知事も県内市町村長を督励し、農山村の「自主自営」を目標に、それぞれの経済更生計画を立案させ、三六年までの第一期五カ年間に、一九九市町村を経済更生市町村に指定して、逐次、実行に移させた。
 下松地域の米川村では、三五年に経済更生計画樹立村に指定されたことから、村長を中心に、農会・産業組合・学校・村会議員・区長などが集まって、十二月末までに計画を作り上げた。そうして、翌年三月には、各地区ごとに懇談会を開催し、五月には「村民総会」と「祈願祭」を開いて、運動を盛り上げた。さらに、その翌々三七年七月には、経済更生協会の映画会を開き、約四〇〇人に視聴させている。
 下松町では、三六年四月に経済更生計画樹立町の指定を受けたことから、八月に町内全地区で懇談会を開き、経済更生運動の主旨徹底に努めた。その結果、翌年三月には、同年四月から始まる五カ年計画を樹立し、経済更生委員・町会議員・区長・農事組合長や各種の団体長に計画書を配布して、町民への教化活動を強めながら、実践に移している。
 同様に、末武南村にあっては、三六年に指定を受けて基本調査を開始し、翌年二月末までに経済更生計画の樹立を終え、四月一日から実施段階にはいって、五月から六月の間に、村内二四地区で懇談会を開催している。その結果、平田仏念区のように、懇談会の翌日から毎日「一銭貯金」を開始し、区民が交替で集金に回るような地区もできていた。
 しかし、実際には村民の関心は薄く、西市表向区のように、「更生市日」の設定に関連して懇談会を開いても、集会者が少なく、懇談が徒労に帰することも多かったのである(末武南村「経済更生計画書」一九三七年)。そのため、末武南村当局は、三七年八月に毎月一回発行の「村報」を創刊したり、「全村教育講座」を開講するとともに、十一月には、「経済更生村民総集会」と「祈願祭」を執行して、運動の徹底を図っている(「末武南村報」一九三七年)。
 ところが、折りからの日中戦争の開始に伴って、もともと精神主義的な性格の強かったこれら各町村の経済更生運動は、「国民精神総動員」運動や「国家総動員」計画の展開の中に吸収される形となり、急速に色あせて行った。

「末武南村報」に掲げられた経済更生計画実行村民総集会における宣誓文