鉄道輸送機関の発展とともに伸長していた日立製作所笠戸工場の生産は、昭和期にはいると、激しい労働争議と深刻な経済恐慌が重なって停滞し、下松町の市街地に住む労働者の中からも多くの失業者を出していた。また、下松町周辺の農村部にあっても、農作物価格の暴落から、深刻な農業恐慌を招いており、昭和初期の下松地域の町村にとって、この経済不況をいかに克服していくかが、行政上の最大の課題になっていた。下松町は、工場誘致政策を一段と進め、一九三〇年の日本石油下松製油所の完成に引き続き、東洋鋼鈑の誘致に成功して、その下松工場が三五年から操業を開始したことにより、急速に重化学工業の町へ変貌することになった。一方、下松町に隣接する末武南村にあっては、すでに大正期以来、海岸沿いの土地を久原用地部に提供して、工場誘致を目指していたにもかかわらず、いっこうに久原工場が設立されなかったことから、村民あげての深刻な工場設置促進運動を展開しなければならなくなっている。
空から見た工場誘致予定地(1960年頃の写真)