工場の建設工事は、翌年二月の整地に始まり、原油タンク、クロス式熱分解装置、最新式のフォスター式二段原油蒸溜装置、スミス・レスリー式揮発油再蒸溜装置などが次々に完成し、続いて船舶桟橋や専用鉄道引込線などもでき上がって、三〇年四月には、盛大な開所式が行われ、「東洋一」と称された下松製油所の誕生となった。
その後、このフォスター式二段原油蒸溜装置は、二度の改造を経て、三五年には日産五〇〇〇バレルの処理能力となったため、主としてカリフォルニアから輸入される原油の備蓄所用地の取得が問題になった(『日本石油精製三十年史』)。
このとき、下松町に隣接する末武南村の上杉佐武郎村長は、西市沖ノ浦に三万坪の土地を選定し、一坪五円の「買上ゲ」価格と、下松町と同率の原油五石当り二銭六厘の附加税を納入することを条件に、三四年十一月の村会決議を経て、日本石油に誘致交渉を重ねたが、地元西市地区を中心に、原油貯蔵タンクの危険性を主張した強い反対の声が起こったため、海岸沿いの土地をいったん断念しなければならなかった(「昭和九年末武南村村会議事録」)。
そのため、上杉村長は、改めて西市北部の尾尻に三万坪の土地を選び、翌十二月の村会決議を経て、一反一五〇〇円の同一価格で日本石油と交渉し、住宅移転者三名と周辺住民九名への救済、用地被買収者に対する種々の補償、道路や用水路の整備、災害防止施設の建造などを盛り込んだ「覚書」を矢島専平の立ち会いの下で交換して、原油貯蔵タンク一五基以上の誘致を村議会の決定事項とした(同)。
しかし、この慌ただしい決定に対して、あくまで当初の予定どおり、本格的な工場を誘致すべきだと主張する反対者も多かった。これらの人々は、翌三五年一月七日に「村民大会」を開き、末武南村が「住宅地又ハ工場地トシテ総テ資格ヲ有ス」ことを理由にして、村当局に建設用地の変更を迫っている(「同年」)。この反対運動に対処するため、上杉村長はさっそくその翌日には村議会を開き、反対派の提出した宣言・決議書の取り扱いを諮り、その否決を得て、原油貯蔵所の誘致を既定どおりに推し進めた(同)。
その結果、日本石油は三五年十月までに、一万八〇〇〇キロリットルの貯蔵タンクを八基を建設し、翌年十月にはさらに三基を設置し、日本最大の原油貯蔵所として機能させた。しかし三六年春には、深刻な漏油事件を起こし、下流域住民の飲料水への悪影響が懸念されたことから、簡易水道の付設を行って、これに対処しなければならなかった(「同年」)。
その後、日中戦争の開始による軍需生産が飛躍的に増大し、三九年の下松市制施行当時、下松製油所は、従業員四〇〇人を擁した大工場となっており、翌四〇年には、航空機潤滑油の製造のために、フルラール抽出装置などを拡充して、増産を続けた。
日本石油下松製油所(1941年ごろ)