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東洋鋼鈑下松工場の設立

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 一九三四年一月、大阪に本社を置く東洋製缶株式会社は、原材料のブリキの製造を目的とする鋼鈑工場を、資本金五〇〇万円で設立することを決定し、創立事務所をまず開設した。その当時、日本の工業界は景気を回復し始めていたが、世界のブリキ生産の八〇パーセント強をアメリカ・イギリス・ドイツの三カ国が占めており、日本では官営八幡製鉄所のみが年間約四万トンを生産している程度で、国内需要の大部分は外国からの輸入に頼っていた。
 当初、東洋鋼鈑創立事務所は、工場設立のために一〇カ所の候補地を選定し、その中から、八幡製鉄所に近いこと、海陸の交通の便がよいこと、良質の水が得られること、の三条件にあった尾道・下松・若松の三カ所に限定して、さらに綿密な調査を続け、最終的に下松に内定して、用地の買収に取りかかった(『東洋鋼鈑50年の歩み』)。
 この間、とくに下松町は工場用地の確保に努め、前代議士矢島専平が所有する旧宅地約四〇〇〇坪に合わせて、久原用地部が所有する約三万二〇〇〇坪の塩田跡地を、ついに東洋鋼鈑へ譲渡させることに成功している。最も難航した久原用地部所有地の東洋鋼鈑への分譲が決定すると、地元の新聞は、ただちに号外を発行して、工場誘致運動の成功を町民に知らせ、一方、臨時町議会も、その斡旋に当たった矢島専平と鮎川義介に対して、感謝電報を打っており、下松町あげての歓迎ぶりであった。
 その後、岩本五郎下松町長は、工場誘致の交渉過程でもち上がった諸条件について、具体的な成文化を進めて解決することとし、三四年三月の町議会の議決を経て、東洋鋼鈑との間では「契約書」を交わし、久原用地部には「覚書」を入れる形を取っている(「昭和九年下松町庶務一件町会会議録」)。
 この文書中に、以後、下松町は、東洋鋼鈑に対して工場設置のための条件整備を行い、久原用地部に対して町民の土地返還要求運動を抑制することを明記し、長くくすぶった久原用地問題に、一応の決着を付けた。こうして、東洋鋼鈑は、早速三月二十四日から用地造成にかかり、翌三五年二月には諸機械の据え付けを終わって、操業を開始している。

東洋鋼鈑下松工場(1941年ごろ)

 一方、激しい労働をすることになる「工手」の採用については、同年四月に五五人、七月に一〇五人、十二月に一九四人と、逐次行われた。東洋鋼鈑は、その募集条件に「身体の強健なる者」と「精神的結盟のできる者」の二項目を掲げ、この条件にかなうのは在郷軍人で、とくに除隊直後の者が「理想的」とし、第五師団の職業補導部と連絡を取って、その年の除隊兵から採用している(「防長新聞」一九三四年八月二十二日付)。そのため、二年後に日中戦争が始まると、若い従業員の多くが軍隊に召集され、生産部門は大打撃を受けることになった。しかし、その後の軍需生産の増大とともに、東洋鋼鈑は工場施設を拡充し、ブリキ生産高を四〇年まで急上昇させ、太平洋戦争の開始後の四三年には、航空機用のジュラルミン鈑の圧延加工を行うに至った。