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末武南村の久原工場設置促進運動

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 一九一七年(大正六)六月、末武南村は、大阪市在住の実業家久原房之助が下松一帯に工場の設立を計画したことに対応して、海岸沿いの土地を工場用地に率先提供し、その促進を期してきた。ところが、第一次世界大戦の終了による日本経済の低迷で、久原工場の建設が行われなかったことから、買収した工場用地を管理する久原用地部などに対して、当初計画の実行を要求することが、村政上の最大課題になっていた(第三章、1)。
 その上、一九三〇年ごろになると、瀬戸内の製塩業界の不振も決定的になり、下松町から末武南村にかけて、久原用地部が買収管理していた下松塩田のほとんどが廃止されることになり、塩田労働者の失業救済問題が重なって、久原工場の実現を求める声は一段と高まった。
 そのため、久原用地部は、とりあえず塩田跡地を農地に転用して活用することを決め、下松町の二六町歩と末武南村の一五町歩に三カ年計画を立て、山口県の認可がおりた下松町宮ノ洲の二一町歩に開墾助成を申請したが、農業用水の確保などに困難な問題があって、容易に実現できる事業ではなかった(「防長新聞」一九三二年四月十九日付)。

久原用地部(1920年ごろ)
(『下松町発展史』より)

 その後、三三年になると、満州事変の影響で、山口県下の工業界も活気を取り戻し始めたことから、再び下松町や末武南村において、久原工場の設立を求める声が盛り上がることになった。とくに末武南村では、同年十一月十二日に、有志が村民大会を開き、村長に村会招集を求めて工場設置促進の決議を迫るなど、活発な動きが起こっている(「昭和八年末武南村庶務一件」)。
 この動きに対応して、末武南村の植杉佐武郎村長も、同月二十一日に村議会を招集し、次のような決議を行って、久原工場の設立促進に取り組んだ。
   工場設置促進ニ関スル件
過ル大正六年、久原房之助氏ヨリ各種ノ工場設置ノ為メ、之レガ工場用地トシテ下松町、末武南村、及ビ花岡村(元末武北村)太華村ノ沿岸一帯ニ亘リ、尨大ナル土地ヲ買収セラレ、爾来財界不況ノ故ヲ以テ、工場ノ設置ナキハ一般住民ノ甚ダ遺憾トスル所ナリ、然ルニ近時工業界ノ漸時勃興ニ伴ヒ、所々ニ各種工場ノ建設ヲ見ルニ到ル、本村ニ在ツテモ此ノ好季ヲ逸セス、久原氏当初ノ声明ニ因リ、工場設置ノ促進ニ努メ、速カニ其ノ実現ヲ期スルモノトス
 昭和八年十一月二十一日提出
                  末武南村長 植杉佐武郎(印)
                     (「昭和八年末武南村庶務一件」)
 しかし、すでに久原房之助は政界に転じており、その後継者としての鮎川義介への交渉も困難で、容易に実現する問題ではなかった。