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東洋曹達工場の誘致失敗と工場用地の返還交渉

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 一九三五年、東洋曹達工業株式会社の創立に当たって、末武南村にその工場を誘致しようとする動きが急にもち上がった。すなわち、末武南村の植杉佐武郎村長は、同年二月十六日の村会に、「将来の発展」と「福利の増進」を図ることを理由に掲げ、東洋曹達を誘致することの可否を諮った。さらに同月二十五日の村会では、久原房之助と久原用地部に対して、企業者が希望する地域を一九一七年(大正六)当時の買収価格で売り渡すことを要求する内容の議決を得て、急いで交渉を開始したが、結局間に合わず、東洋曹達は工場用地を都濃郡富田町に求めたため、末武南村の誘致運動はあえなく挫折した(「昭和十年末武南村庶務一件」)。
 そのため、末武南村では、植杉村長の誘致失敗を非難する声とともに、東洋曹達の工場用地の取得が進まなかったのは、余りにも高い地価に原因があったとして、久原用地部に対する村民の不満は急激に高まっている。この動きの中で、植杉村長は、久原用地部から工場誘致のための準備用地を買い戻す必要性を認識し、三五年三月四日に村議会を開き、村会議員や有志者などを組織して、久原房之助に直接交渉を行うための上京費用の支出を諮っている(同)。
 とくに、植杉村長等が携える「陳情書」の中では、東洋曹達の誘致失敗により、村当局の「失態ヲ詰問」する村民大会などが各地に開かれ、「未曾有ノ紛擾問題」になっている実情を強調し、さらに、末武南村の笠戸湾沿岸一帯が「封鎖ニ等シキ現況」にあることを訴えて、「工場建設上、意ノ如ク利用シ得ル」土地を確保するために、次の二項目を受け入れるように要求していた。
一、本村ニ於テ工場誘致ノ準備工作トシテ、所望ノ地区五、六万坪以下ヲ買収当時ノ価格ヲ以テ分譲方、久原用地部ト契約出来得ル様御尽力ヲ賜ハルコト
  但、久原用地部ニ於テ表示ノ価格ト、買収当時ノ価格トノ差額アルトキハ、閣下ヨリ御寄付ヲ賜ハルコト
一、閣下ニ於テ、直接又ハ間接ニ、急速工場ヲ設置サルルコト
                     (「昭和十年末武南村庶務一件」)
 しかも、この陳情書には、末武南村の願意が聞き入れられなかった場合、「自力更生」の方針で、海岸に「発展ノ途」を講じる決意を付け加えており、強い調子の意思表明であった。
 この陳情の結果、久原房之助の後継者としての鮎川義介が、末武南村に工場を設立することとなり、三五年五月には、久原用地部と末武南村の間に、その工場用地として、二万坪から三万坪の分譲を予約する契約が行われるに至ったのである(同)。