一九三五年五月、末武南村の植杉佐武郎村長は、久原房之助との交渉過程で、鮎川義介の日本産業株式会社の工場を末武南村に進出させる用意のあることを知り、早速に久原用地部と交渉し、切戸川以西の地先海面の埋立にかかわる漁業権の提供と引換えに、その工場誘致準備地として、二、三万坪の分譲予約を契約していた(「昭和十年末武南村庶務一件」)。
その後、日産の鮎川義介は、翌三六年二月に実地調査を行い、三七年には、末武南村の海岸一帯に、大規模な工場建設を内定して、その計画を表明するに至った。
この情報に接した植杉村長は、さっそく三月三十一日に村会を招集し、「歓迎ノ誠意」を表明するとともに、「挙村一致」で「諸般ノ準備工作」を実行することを決議して、四月七日には、村長を総裁とする準備工作実行組織まで用意して、「万全」な誘致運動を進めている(「昭和十二年末武南村庶務一件」)。
また日産でも、同年秋までには末武南村との間に工場進出の仮契約を締結し、「湧き返るばかりの喜び」の中で、海岸沿いに工場用地六〇万坪の買収に乗り出し、あわせて海面五万坪の埋立を計画し、住宅地一〇万坪の買収にも取りかかっていた(「防長倶楽部」三九号)。
ところが、この年の七月には日中戦争が始まり、戦争に伴う政治・経済情勢の変化から、結局、この日産工場の設立計画も実現することなく、末武南村の工場誘致は、ことごとく失敗に終わってしまうのである。