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日立笠戸工場の拡張と戦時生産体制

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 満州事変の勃発後、日立製作所笠戸工場は、主として大陸への機関車などの輸出を伸長させ、生産施設の拡張とともに、技術係や客貨車係などを新設して、生産高を著しく上昇させていた。とくに、一九三七年五月には、下松町宮ノ洲の地先海面一三五六坪余を埋め立てて、最新設備の客貨車専用工場を建設しており、鉄道省や南満州鉄道、あるいは朝鮮総督府鉄道局の指定車両製造工場になるとともに、民間鉄道会社からの貨客車両などをも受注して、飛躍の一途を辿っている。

バシハ型過熱テンダー機関車
(日立製作所『笠戸工場史』)より


日立製作所笠戸工場の事務所(1939年)
(「祝下松市市制施行紀念絵葉書」より)

 そのため、日立笠戸工場は、職制の面からも生産体制の整備を図るため、まず「係」を「課」に改称し、ついで三九年には、「部」「課」制を採り、太平洋戦争開始後の四二年六月には、四部・一三課の生産体制を敷いて、大増産を続けていた。この間の従業員の増加も著しく、図2に示したとおり、三九年十月に三六〇〇人余であったものが、さらに三年後の四二年十月には、四五〇〇人を擁する大工場になっている。しかし、翌四三年の八月には、暴風雨による高潮の襲来で、工場内の施設設備が破壊され、およそ二カ月の間、生産活動を中断しなければならない事態も発生した。

図2 日立笠戸工場の従業員の増加
[資料:『笠戸工場史』]

 また、四三年六月からは、従来の車両生産に加えて、陸軍の要請で「特殊兵器」を製造する事態になっており、勤労動員による大量の工員をも受け入れ始めたことから、同年十二月には、兵器部と勤労部を増置し、兵器の生産に重点を移すようになっている。
 とくに、「ゆ建造計画」という秘匿名称で呼ばれた「特殊潜航輸送艇」の生産は、南太平洋の制空権を失った日本軍が、南方諸島に駐留する陸軍部隊に物資を輸送する目的で始めた潜水艦の建造で、十月に一号艇を進水させた後も、資材と工員の欠乏する状況下で、終戦時まで続けられ、二四隻を完成させていた。このため、さらに四四年十月には、大阪造兵廠からの派遣工員や、勤労動員学徒・女子挺身隊員・勤労報国隊員・応徴士などが加えられ、日立笠戸工場の従業員は八九〇〇人にまで膨れ上がって、その終戦時の職制は、図3のとおりになっている。

図3 日立笠戸工場の職制(1945年8月15日現在)
[資料:『笠戸工場史』]

 こうして、神戸製鋼所長府工場と並ぶ県下有数の大工場に数えられた日立笠戸工場は、翌四五年六月と七月の両度、連合国軍の空襲の標的となり、激しい爆撃を受けることになった(『笠戸工場史』)。