しかし、ようやく四四年九月に第一期の埋立工事を完了して、製油装置の建設に着手したものの、資材不足で工事は一向に進まず、逆に輸入原油の入手が困難になり、一四基あった原油貯蔵タンクのうちの六基を解体しなければならない有様になって、結局、敗戦で工事が中断してしまうのである。とくに四五年三月に受け入れた南方産原油三〇〇〇キロリットルが最後になり、これを処理した後は、泥油と軍部委託油の処理しか残らず、操業率も著しく低下していた。
こうして、日石下松製油所は、同年六月から七月に掛けて三回の爆撃を受け、従業員九人の犠牲者を出すとともに、主要装置を完全に破壊されて、敗戦の日を迎えることになった(『日本石油精製三十年史』)。
日本石油下松製油所の油槽車両(1941年ごろ)