ビューア該当ページ

日石下松製油所の拡張計画中断

739 ~ 740 / 1124ページ
 一九三七年(昭和十二)七月、日中戦争が始まると、とくに日本石油下松製油所の軍需生産は飛躍的に増大し、三九年の下松市制施行当時には、従業員四〇〇人を擁す大工場となり、翌四〇年には、航空機潤滑油の製造のために、フルフラール抽出装置やBK脱蠟装置などを建設し、戦時色を一段と強めていた。そして、四一年十二月の日米開戦でさらに戦火が拡大すると、日石下松製油所は海軍の命令を受けて、新製油所の建設を末武下の海岸地帯に計画することになった。
 しかし、ようやく四四年九月に第一期の埋立工事を完了して、製油装置の建設に着手したものの、資材不足で工事は一向に進まず、逆に輸入原油の入手が困難になり、一四基あった原油貯蔵タンクのうちの六基を解体しなければならない有様になって、結局、敗戦で工事が中断してしまうのである。とくに四五年三月に受け入れた南方産原油三〇〇〇キロリットルが最後になり、これを処理した後は、泥油と軍部委託油の処理しか残らず、操業率も著しく低下していた。
 こうして、日石下松製油所は、同年六月から七月に掛けて三回の爆撃を受け、従業員九人の犠牲者を出すとともに、主要装置を完全に破壊されて、敗戦の日を迎えることになった(『日本石油精製三十年史』)。

日本石油下松製油所の油槽車両(1941年ごろ)