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商業の統制と商業報国会

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 日中戦争の拡大とともに、食料や一般消費物資の不足が目立ち始め、諸物価が急に上昇した。そのため、政府は、一九三八年七月になると、「物品販売価格取締令」を公布して公定価格制度を開始し、経済保安警察制度によって厳しく違反者を取り締まったため、商業活動は著しく制限されることになった。さらに翌三九年十月の「物価統制令」を経て、四〇年四月には、米・味噌・醬油・塩など一〇品目の切符制度が始まり、四一年四月の「生活必需品物価統制令」や「鮮魚介配給統制規則」で配給制度が一般化したことから、商店を閉じて工場労働者へ転業する者が多くなった。
 下松地域では、花岡商工会が、すでに三八年八月に、現金以外の商品仕入が困難となったことを理由に、顧客に対して「現金取引」の決定を通知している(村上家文書「日支事変中諸達書類綴」)。また、翌三九年二月には、下松商工会が、統制経済への移行による中小商工業者の衰退防止対策として、下松町長に補助金や振興金の増額を申請しなければならない状態になり、商業の衰微は著しかった(「昭和十四年下松町役場庶務一件」)。
 その後、「暴利行為取締規則」が改正強化され、商業の国策補助機関として、各地に「商業報国会」が組織される中で、下松市にも商業報国会が組織されており、その「推進隊」は、四一年五月に「新商業道徳樹立週間」の行事として、次のような商業標語を作成し、店頭への掲示を指示し、降松神社への参拝を呼び掛けている。
イ、売るにも買ふにも分け合ふ心
口、商道を正しく踏んで御奉公
ハ、笑顔の売手に笑顔の買手
                   (村上家文書「一般社会通達書類綴」)
 また、同年末からは、経済警察が配給統制下における商業活動の調査を厳重に行うようになり、さらに下松商工会も、商店の「公休日」を、毎月十五日の一回であったものを、一日と十五日の二回にふやしており、戦争の長期化に伴う商業活動の衰退は著しかった(「関門日報」一九四三年六月五日付)。

下松市営小売市場の全景と売店(1941年)