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長周銀行の合併

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 昭和初期の恐慌下にあって、中小金融機関の合併は、「無尽会社」などから普通銀行へと波及した。とくに、日中戦争開始後は、多額の軍事公債を消化させるため、「国策」として普通銀行の統合が進められることになり、また、中小商工業者の「企業整備」や「統制経済」などの徹底で、貸出し先を失った中小銀行への対策としても、地方銀行の統合が図られていた。
 すなわち、下松市における金融機関としては、市制施行直後の一九四〇年当時、久保・下松・住吉・花岡・笠戸の五郵便局に、長周銀行・百十銀行下松支店・芸備銀行下松支店の三銀行となっており、それぞれ国債の消化や「国民貯蓄」の一翼を担い、その割当額の達成に努めていた。このうち、下松市内に店舗をもつ三銀行の三九年度の営業成績は表3に示したとおりで、とりわけその創業以来、下松に本店を置いて発展してきた長周銀行は、最も市民に親しまれて利用されており、県下に一六支店・一一出張所を擁して、活発な営業を続けていた(「下松市勢要覧」昭和十五年版)。
表3 下松市の銀行の営業成績(1939年度)
銀行名預金貸付金
繰越預金本年度預金繰越貸付金
百十銀行
 下松支店

2,000,436
(ママ)
80.223,695

2,489,841
(ママ)
92,497

732,918
(ママ)
167,942
芸備銀行
 下松支店

1,523,493

2,863,606

4,387,099

598,830

1,589,474
(ママ)
2,169,304
長周銀行36,389,8185,037,25541,427,07317,697,154535,86118,233,015
[資料:「下松市制要覧」1940年版](数値の疑わしい箇所は(ママ)とした。)

 ところが、戦局も押し詰まった四四年三月になると、山口県が「一県一銀行」の政策を断行したことから、この長周銀行も、県下に本店を置く華浦・船城・宇部・百十・大島の五銀行と合併して「山口銀行」となり、四月一日から、その一支店として、営業を再開することになった。
 こうして、一八七八年(明治二十一)の末武南村における防長精米合資会社の創立以後、下松から周防部一帯に商圏を拡大したことによって、一八九八年には「下松銀行」、さらに一九二六年には「長周銀行」へと社名変更し、長く親しまれたなじみ深い「長周銀行」の名称も、ついに聞かれなくなってしまうのである(『大下松大観』)。

百十銀行下松支店(1933年ごろ)