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[恐慌下の社会問題]

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 日立製作所笠戸工場の進出で、工場労働者が増加し、工業地域の性格を強めていた下松町とその周辺諸村にとって、昭和恐慌の影響は大きかった。すなわち、不況が深刻になった一九三〇年(昭和五)の夏には、外国塩の輸入で低迷していた下松塩田の「大整理」が実施され、その秋には、日立笠戸工場の「職工解雇」が断行されて、下松は深刻な失業者問題に見舞われた。そのため、下松町も、社会不安の緩和を目的とした米の廉売や、困窮した細民救助の対策として、「公益質屋」を創設するなど、積極的な社会事業を進めている。
 また、商工業界の不振は、農村にも暗い陰を投げ掛けて、米価や繭価をはじめとする農産物価格の大暴落を引き起こし、農民を苦しめた。したがって、このころの農村では、農繁期に託児所を増設するなど、農民の経済的な「自力更生」を援助するための対策を進めている。