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塩田整理と失業者救済

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 安価な外国塩の輸入で不振を深める国内塩業界に対して、大蔵省は大々的な塩田「整理」を行う方針を決め、一九二七年八月から、その準備に着手し、二九年五月になって、まず一一県分の塩田廃止計画を公表した。この中に山口県は含まれていなかったが、次回に予想されるところの割当面積の大きさに、関係者の不安は次第に高まっていた。その当時、山口県下においては、一九二一年(大正一〇)からの第一次整理で、日本海側の塩田と揚浜式の塩田が姿を消し、生産性の高かった入浜式の塩田のみが瀬戸内海側に存続している状態であり、全国的にみても香川県と兵庫県に次ぐ第三位の「塩業県」であったため、大規模な塩田整理に対する反対は大きかったのである。大蔵省広島地方専売局は、工業化の進行する都濃郡の塩田を多く廃止する方針を決め、とくに下松町と末武南村の塩田が、すでに工場用地として久原用地部の手に渡っていることに着目し、これを全廃する方向で検討を進めていた。

塩田整理以前の末武南村鳥かん図(1928年)
海岸一帯の塩田の広がりと、下松町の専売局が描かれている。

 この計画を知った下松町と末武南村は、それぞれ三〇年五月に、「塩田整理失業者調査臨時委員会」を設置し、大蔵省当局や塩田地主の久原房之助に対して、整理区域の縮小や失業者の救済を訴え出た(「昭和五年度下松町役場庶務一件」「同末武南村庶務一件」)。一方、「防長新聞」も、この動きをつかんで「下松地方の塩田全廃で三千名の死活問題」と報じたことから、大きな社会問題となった(五月十九日付)。とりわけこの年は、大恐慌による社会不安がたかまり、失業者対策が最大の課題になっていたことから、この塩田整理計画に対する反対運動が盛り上がり、結局、専売局も下松塩田の全廃方針を緩和して、六月十六日に一部を存置する塩田整理計画を告示した。これによって、下松町では東豊井の新崎と西豊井の重本屋・村重屋・三谷屋を除くすべての塩田が廃止の対象になり、末武南村でも西沖と東潮上の塩田が整理されることになって、徳山町や富田町で整理される塩田と合わせると、都濃郡下で廃止対象となった塩田の面積は五四町歩となり、山口県下全体の約四四パーセントに達している(「防長新聞」六月十六日付)。
 このような第二次塩田整理で、山口県下の塩田の一五パーセントが消滅することになり、製塩の終わる秋には、一一〇〇人の従業員を失業させる見通しから、改めてその救済が問題になった。とくに、塩田廃止が最も多く割り当てられた都濃郡の中にあっても、下松地域の塩田失業者が際立っており、下松町で専業二八人と副業八五人、末武南村で専業四〇人と副業一二人、合計で一五五人の失業が見込まれたことから、有効な救済対策が期待されていた(同六月十八日付)。専売局は、塩に代えて葉煙草の栽培を奨励する方針を取り、塩田失業者に葉煙草栽培の許可を与えるとともに、下松町の山崎屋浜の跡地に葉煙草再乾燥工場を設置して、就労の機会を与える方針を示し、この問題を鎮静化しようとした(同、六月一日付)。
 こうして、一九三〇年九月三十日には、整理対象となったすべての塩田が廃止され、広島専売局下松出張所管内の塩業関係者には、転業資金四万二〇〇〇円余が、製造人六〇パーセント、従業員四〇パーセントの割合で分配されたことから、二一〇人の従業員は、最高額で三〇〇円、最低額で三〇円の支給を受けることになった(同、十二月十三日付)。また、一九二〇年(大正九)に創立された下松塩業会社も、これを機にいったん解散し、翌年一月には、改めて下松塩田共同組合を組織した。さらに、塩田地主の久原用地部は、廃止した塩田跡地を町設グランドの建設用地として下松商工会に貸与したり、水田への転換を計画したりした(同、六年五月十五日付)。