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細民救助と米騒動の防止

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 昭和の大恐慌は、都市部に失業者を増大させ、農村部にも困窮農民をつくり出し、大きな社会不安を引き起こした。下松町においては、一九三〇年(昭和五)八月、貧困児童四家族・八人に対して弁当米を給与し、十数人に対して学用品および教科書を補給し、翌三一年には、末武南村で、篤志家が貧窮児童救済用として、学用品の寄付を行う状況であった(「防長新聞」八月五日付、「昭和六年末武南村庶務一件」)。とくに三一年の春は、全国的に工場労働者の賃下げ反対闘争や小作争議が激化し、そのうえ、東北・北海道の大凶作が重なって、米価騰貴の不安が強まった。このような事態に対し、同年十一月末になると、失業者を多く抱える下松町は、細民救済資金として、町費一〇〇〇円を社会事業助成金へ補助できるように決議している(「昭和六年下松町庶務一件」)。
 また、翌三二年の夏には、いよいよ米価の暴騰が始まったことから、山口県も「米騒動」の発生を抑制するために、政府所有米の払い下げを受けて、市町村を通じて生活困窮者へ廉価配給を行っている。久保村の場合、八月十三日付の区長宛て文書で、村税戸数割一カ年五円以下の納入者を対象にして購入希望者を募集し、九月二日に、三、四等玄米一〇俵を一俵六円四〇銭で売り渡している。また十一月には、第二回の払い下げとして、四等米二五俵を一俵五円八〇銭で放出し、二九戸に対して最高二俵、最低二斗、平均三斗四升の分量で配給している(「昭和七年久保村庶務一件」)。下松町においても同様に、廉価な政府払下米を二回にわたって提供し、四四八俵を町内二五八戸・一一九七人に対して無事に配給している(「昭和七年下松町事務報告書」)。
 こうして、米価が騰貴する夏の端境期を一応乗り切り、一九三二年産米の出荷時期まで無事につなげたものの、山口県警察部は騒動の発生を警戒し続けて、十一月二十四日に行われる防府天満宮における「裸体坊祭」に当っては、「裸体坊参拝者心得」を作成し、各市町村長や在郷軍人、青年団、消防組などの幹部を通じて、参拝希望者にその内容を徹底させ、参拝者名簿を三田尻警察署に提出させるなど、徹底的な取締りを行う用心深さであった(「昭和六年米川村役場庶務一件」)。また、下松町においては、すでに二九年二月の時点で、日立製作所笠戸工場と百十銀行や芸備銀行の下松支店から、「警備費」として合計六〇〇円の指定寄付を受け、騒動の発生を防止する対策を続けており、さらに三五年には、日本石油下松製油所ほか一九団体から、下松警察署派出所の設置のために五〇〇円の指定寄付を受けるなど、警備体制の強化が続いている(「昭和四年、十年下松町庶務一件」)。

下松警察署(1933年ごろ)
(『下松商工案内』より)