これによると、久原房之助は工場用地として、下松町とその付近の三カ村にわたって、海岸一帯の三二〇町歩を買収したものの、工場の建設が予定通りに進まなかったため、ほとんどの土地をそのまま農耕地や塩田として小作させたことから、久原用地部による小作経営が始まったとし、その地目別面積は表4のように、また、その町村別の小作人数は、表5のように掲げている。さらに、一戸当たりの小作面積については、田畑の場合、最大の者が一町五反歩で、専業農家は一町歩内外、商工業を兼業する農家は二、三反歩を小作する者が多いとし、塩田の場合、普通「一戸前」二町歩を、稀に二、三戸前の塩田を小作する者もあると付け加えている。また、一反当たりの小作料については、田・畑・宅地・塩田を、それぞれ上・中・下の三等級に分け、田地の場合、上田は二石、中田は一・三石、下田は〇・五石とし、塩田の場合、上田は四八円、中田は三〇円、下田は七円三〇銭の割合で徴収していることを報告している。
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その上で、久原用地部の小作地経営の全般について、他地区と同様に小作争議の「激発ノ徴」はあったものの、これまで「極メテ平静」に経過しており、「見ル可キ実績ヲ示シツツアリ」と評価し、「宜ロシキヲ得タ」「諧和協議ノ施設」として、つぎに掲げた八項目をあげている。
1、賃貸地耕作者を「小作人」から「耕作者」に改称し、「温情主義」で終始する。
2、賃貸地内の耕作品評会を開催し、入賞者に商品を授与する。
3、「耕作者」に毎年一円五〇銭あての燗酒料を交付する。
4、「耕作者」の家族の不幸、牛馬の斃死、不慮の災厄に対して慰弔料を贈呈する。
5、動力農具を無料で貸与する。
6、栽培法の改良を指導する。
7、農事の先進地を視察させる。
8、賃貸地を八管理地区に分け、各一人あての管理人を置いて、常に巡回指導に当らせる。
(同)
結局、久原用地部による小作地経営をめぐっては、小作料そのものはきわめて高率であったが、久原工場の誘致のために農地を一斉に売り渡した特殊な事情や、書類による明確な小作契約が行われていたこと、さらには、このような久原用地部の巧みな小作地経営によって、小作争議は抑制されたと考えられ、工場建設が実現しないことを理由にした農地の買戻し要求も、おりからの不況下で、下火になっていたのである。