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住宅用地の開放交渉

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 一九二九年、日本石油下松製油所が創立され、翌々三一年、日立製作所笠戸工場が増産体制に入ったことから、下松地域には、これらの大企業に関連した中小企業も勃興して、工場労働者が著しく増加し始め、住宅難が社会問題になった。とくに、下松町は平地に乏しく、市街地と古くからの屋敷地のほかは、ほとんど久原用地部の所有に属しており、新しい住宅を建設する余地のない状況であったため、東洋鋼鈑下松工場の進出が予定されると、住宅地の確保は一層深刻な問題となった。そのため、三三年十二月になると、下松町は久原用地部に対して、家屋を建設する適当な場所がないことから、住宅難に陥っている実情を訴え、「今之ヲ打捨置ク時ハ、本町発展ヲ阻止スルノミナラス、終ニ思想問題ヲ惹起スル虞モ有之」と、強硬な態度で、道路両側の土地を住宅地として、町民の希望者に分譲・貸与するように申し入れている(「昭和八年下松町庶務一件」)。
 しかし、久原用地部との交渉は一向に進展しないまま、東洋鋼鈑下松工場の建設は進んだ。そのため、再び三五年一月には、下松町議会において、つぎのような「住宅地開放」を求める議決を行い、久原用地部への働きかけを一段と強めている。
  記
近来本町ニ各種ノ工場設置セラレ、従テ人口著シク増加ノ傾向ヲ見ルハ、誠ニ喜ブベキ現象ナルモ、土地ハ殆ンド貴社ノ所有ニ属シ、個人所有ノ土地ハ全部家屋ヲ建テ尽シ、為ニ極度ノ住宅地難ニ陥リ、是迄屢々貴社ニ対シ御所有土地開放方ヲ交渉セルモ、今以テ何等之ガ実現ヲ見ズ、若シ此ノ状態ヲ据置ク時ハ、本町ノ発展ヲ阻害スルノミナラズ、遂ニハ思想問題モ惹起シ、自治体ノ危機ヲ招来スルモ虞レアルニ付、此際応急対策トシテ不敢取、町設道路ノ両側地域ヲ貸与、又ハ分譲セラルルカ、或ハ他ニ適当ノ方策ヲ講ゼラレ、以テ速ニ本町多年ノ要望ヲ達セラレムコトヲ
                      (「昭和十年下松町庶務一件」)

久原用地部の事務所(1933年ごろ)
(『下松商工案内』より)