しかし、久原用地部との交渉は一向に進展しないまま、東洋鋼鈑下松工場の建設は進んだ。そのため、再び三五年一月には、下松町議会において、つぎのような「住宅地開放」を求める議決を行い、久原用地部への働きかけを一段と強めている。
記
近来本町ニ各種ノ工場設置セラレ、従テ人口著シク増加ノ傾向ヲ見ルハ、誠ニ喜ブベキ現象ナルモ、土地ハ殆ンド貴社ノ所有ニ属シ、個人所有ノ土地ハ全部家屋ヲ建テ尽シ、為ニ極度ノ住宅地難ニ陥リ、是迄屢々貴社ニ対シ御所有土地開放方ヲ交渉セルモ、今以テ何等之ガ実現ヲ見ズ、若シ此ノ状態ヲ据置ク時ハ、本町ノ発展ヲ阻害スルノミナラズ、遂ニハ思想問題モ惹起シ、自治体ノ危機ヲ招来スルモ虞レアルニ付、此際応急対策トシテ不敢取、町設道路ノ両側地域ヲ貸与、又ハ分譲セラルルカ、或ハ他ニ適当ノ方策ヲ講ゼラレ、以テ速ニ本町多年ノ要望ヲ達セラレムコトヲ
(「昭和十年下松町庶務一件」)
久原用地部の事務所(1933年ごろ)
(『下松商工案内』より)