久原用地部下松出張所は、笠戸湾沿岸一帯の広大な土地を工場用地として買収し、これを維持・管理してきたが、進出のさい地元四カ町村に約束したことの実現とともに、とくに工場建設を行っていない末武南村との間で、解決しなければならない懸案事項が多く存在した。早くは大正期において、末武南村に県立下松工業学校を創立させたことを初めとし、昭和期に入ってからは、住宅移転割当地三七四坪の譲渡と平田大門樋袖石垣の修築、あるいは工場用地被買収者の救済や、伝染病隔離病舎の移転など、懸案の問題を一つ一つ解決していかなければならなかった。
このうち、一九二九年七月における大門樋修築問題については、工場建設の障害になる樋門を移転する当初計画を取り止め、末武南村に石垣破損個所修築経費の三分の一に相当する二三円を支出させて、従来の樋門を修繕する工事に変更したことから、末武南村が樋守小屋移転計画の撤回を余儀なくされてしまい、そのため移転費積立金の一部一二八円を取り崩して、従来の小屋に全面的な大修理を加えざるを得なくなった事件で、村民の反発を受けている。また、伝染病隔離病舎の移転問題は、当初から未解決の懸案事項であり、末武南村が二九年六月に準備委員会を設置して、その挟小さと老朽性の改善に乗り出したことに対応するとともに、工場用地被買収者の救済を迫られていた事情もあって、ようやく翌年十一月、末武南村に対して七五〇円の寄付を行うことで解決した事件であった。すなわち、末武南村は同年十一月、不況下で苦しむ久原工場用地被買収者四〇人が結成する共済会を補助するため、久原用地部から七五〇円の寄付金を受け取り、それをいったん共済会に補助し、逆に共済会から五五二円を隔離病舎の移転改築費の中に寄付させ、再び共済会へ三七五円を補助するという複雑な操作を行って、この問題を処理している。その結果、久原用地部が支出した七五〇円は、末武南村に一七七円、共済会に五七三円が渡っている(「昭和五年末武南村庶務一件」)。