事故当初、日本石油は、下松製油所への送油管の修理途中に誤って漏油し、そのさい埋立土砂中へ吸い込まれた油が、後になって漏出したものと弁明し、敷地外に浸透しないように汲み取りをするので、懸念しないようにと説いていた。ところが、その後、四カ月以上を経過した九月になっても漏出し、低地に向かってしばしば流出したことから、下流の関係住民は飲料水に浸透することを恐れて、その対策に簡易水道を施設することを強く要求し始めた。そのため、かつて貯油槽の誘致を積極的に進めた村当局は、臨時委員会を組織して対応を協議しなければならなくなり、十数回の会合を重ねて検討した結果、日本石油に簡易水道の敷設交渉を開始することとし、「相当」の交渉費の支出を決意して、目的達成につとめることを村議会で議決している(「昭和十一年末武南村庶務一件」)。
日本石油下松製油所の原油貯油槽
(1948年1月、アメリカ軍撮影)