一九三九年の下松市発足当初、人口約三万三〇〇〇人のうち、工業および工場従業員は七七〇〇人に達し、すでに職業人口の過半数を越え、農業やその他の産業部門の就業者数を上回っていた(「下松市勢要覧」昭和十五年版)。しかもなお、工場は「数千人の労力不足を訴へている」状況であった(「重工業都市"下松市"の誕生」一九三九年下松市役所)。とくに、このような工場労働者の不足は、日中戦争の開始以後、軍隊へ「召集」される従業員が増加したことから深刻化し始めた現象で、下松職業紹介所の労働者募集業務も広域化して、すでに三八年五月には、専売局下松出張所や福島人絹防府工場の男子職工の急募を、農村部の米川村で行わなければならなかったことに端的に示されている(「昭和十三年米川村庶務一件」)。
そのため、下松市や徳山市などの工業地帯に近接する農村部では、小学校を卒業したばかりの若年層の大部分が、「工業戦士」として、都市部に出稼ぎする情勢が生じ、その結果、農業従業者は老人か婦女子に限られるようになり、「山間部の不良田地はしだいに荒廃する」と言われる状態にあった(同)。以後も、このような工場労働者の不足は一層深刻化するばかりで、日立製作所笠戸工場の大拡張などに当たっては、他の産業部門からの「徴用」や「勤労報国隊」、あるいは「学徒動員」などの方法で、労働者を大量に受け入れることになった。