満州事変以後、下松町においては、日立製作所笠戸工場の生産が拡大し、東洋鋼鈑下松工場の進出もあったことから、重工業の伸長が著しく、これに関連した諸産業も興隆したため、工場労働者の確保に関心が集まり、無料・公営の職業紹介所の必要性が強く認識され始めていた。すでに、隣接する徳山町には、下関市や宇部市とともに、公営の職業紹介所が置かれており、下松町にあっても、特に日中戦争の開始後は、軍隊への応召者が増加して、工場労働者の確保が困難になったため、職業紹介所の設立は、緊急を要する課題となっていたのである。そのため、一九三七年十二月、下松町は正式な認可を受けて、一棟・一二坪の職業紹介所を開設し、さっそく年末までの一週間に、男子一五人の求人を受け付け、男子三人の求職者全員の就職を実現させている。その後も、増加する求人者に対して、求職者を紹介することに努めている(「昭和十二年下松町役場事務報告」)。
ところが、翌三八年になると、欠乏する労働力の戦時下の再編成を目的にして、政府は職業紹介法を改正し、職業紹介所の官営化を実施した。そのため、下松町でも六月三十日に臨時議会を開いて、七月一日から徳山市に国営の職業紹介所が開設されることを確認し、町営の職業紹介所の廃止を議決している(「昭和十三年下松町会会議録」)。結局、下松町の職業紹介所は、開設後わずか六カ月間で閉鎖されてしまうことになり、短期間の業務を行ったに過ぎなかった(『大下松大観』一九三八年)。