一九三九年七月、「国民徴用令」が公布され、国民を強制的に軍需工場へ「徴用」することが始まり、それに伴い従来の職業紹介所を「徴用」の実態に合わせる改革が行われることになった。すなわち、四一年になると、国営徳山職業紹介所は「徳山国民職業指導所」に改称され、その強制力で非軍事産業部門から軍需工場へ向けて、国民の転廃業を本格的に指導・斡旋している。
ところが、大規模な軍需工場の拡張が続いていた下松市に、労働者の需給関係を調節する職業指導所のないことが問題になり、四一年五月、その設置を求める陳情が行われた。そのため、政府は同年十二月までに、徳山国民職業指導所の出張所を、旧下松町職業紹介所の建物を利用して開設し、さらに翌四二年三月には、これを独立・昇格させて「下松国民職業指導所」とし、下松地区の労働者の統制と移動を強力に押し進め始めている。
この下松国民職業指導所の主要業務は、管内の軍事工場に対して、労働者を「徴用」することであり、やがては「勤労報国隊」や「女子挺身隊」を組織しての勤労動員に拡大して、ついには学徒の勤労動員となって、戦局の悪化とともに、激しさを増す仕事であった。
とくに下松国民職業指導所にあっては、四三年一月に、管内の工場を一丸とする「労務管理協議会」を設置して労務調整を行い、さらに翌二月には、「国民動員協力員」を、下松市に八人、米川村に四人、須金村に四人、須々万村に五人、八代村に五人、高水村に四人、勝間村に四人配置し、勤労動員の徹底に協力させている(「関門日報」一月十四日、二月十日付)。また同年九月には、「財団法人国民徴用援護会山口県支部」の下松出張所を開設し、家族の徴用による生活困窮者に対して、生活援護を開始した(同、九月六日付)。こうして下松国民職業指導所は、増加の一途をたどる事務量に対処するため、新事務所の建設を下松駅の東方に計画し、戦時下の物資不足にもかかわらず、同年十月には、県下最大の洋館二階建・一四三坪の庁舎を、六万五〇〇〇円の建築費で落成させた(同、九月二十九日付)。
しかし、この四三年九月の段階では、工場労働者の中核となるべき男子青壮年層の大部分が、すでに軍隊に「徴兵」されて枯渇していたことから、一七職種に対する男子の就業が禁止されており、同時に「女子挺身隊」の結成も進み始めていたことから、下松国民職業指導所の業務も、その中心を女子の動員強化に移行させていき、やがて、四四年三月には、「下松国民勤労動員署」と改称し、徹底的な「根こそぎ動員」といわれる動員を展開するのであった。