下松市が「労務者需給ノ円滑化」を図る目的で、徳山職業指導所の下松出張所を誘致したのは四一年十二月で、この年、下松市当局が取り扱った「国民徴用事務」の補助は、二〇回に及んでいた(「昭和十六年事務報告書」)。また、下松職業指導所が業務を本格的に開始した四二年には、中小工業者の「再編成」による「労務動態調査」や「青壮年国民登録」を実施し、「国民徴用事務」の取扱いを三二件・一三九人に対して行っており、そのうちの徴用解除者は三〇人であった(「昭和十七年事務報告書」)。さらに、「国民徴用令」が改正・強化された四三年には、同様に三六件・二三七人に対して「国民徴用事務」を取扱い、軍需工場への労働力の集中を促進している(「昭和十八年事務報告書」)。
このような状況を、「徴用」が最も激しく行われた四三年から翌四四年にかけて、下松・宇部両警察署管内と山口県下全体の男子職工数の月別推移で表すと、図2の通りであり、重工業部門の大工場を擁する下松署管内の急激な増加が明らかに読み取れる(「職工移動状況調」山口県労政課)。すなわち、四三年十月には、重点工場の指定を受けていた笠戸船渠笠戸造船所と日立製作所笠戸工場に、それぞれ二〇〇人と一五〇人の「徴用」が予定されていたことも確認できる事実であった(同)。
図2 男子職工数の推移(指数グラフ)
こうした中で、すべての「徴用工」は、「産業戦士」として「滅私奉公」を強いられており、そのわずかな抵抗として、たとえば、日立笠戸工場においては、四一年十二月、「三銭、五銭の昇給、生活できるものか、同士よ立て、一致団結してストライキに邁進しよう、非常時を背負う青年各位殿、一工員」とか、四三年三月、「産業報国ノ美名ノ本ニ職工ヲダマス日立ヲツブセ」と言った非痛な落書きが大便所や機械工場外壁支柱に現れている(「特高月報」一九四二年一月~四四年六月)。また、東洋鋼鈑下松工場においては、四三年八月、寄宿舎を抜け出した職工五人が行方不明になった事件が発生しているのである(「関門日報」一九四三年八月三日付)。