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強制連行

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 軍隊への激しい徴兵から生じる労働力不足を補うため、政府は一九三九年に、朝鮮総督府と「朝鮮人労務者内地移入ニ関スル件」を策定し、朝鮮半島から強制的に労働者を連行し始めた。その数は、四五年の敗戦までの間に一〇〇万人を越したといわれ、大部分の者は労働条件の劣悪な鉱山や建設現場などに送り込まれて、苛酷な労働を強いられたことから、最も多くの犠牲者を出している。それでもなお不足する労働者の補充として、戦争末期には、俘虜も労働者として連行され、鉱山や工場で使役されることになる。
 下松市においては、強制連行された朝鮮人が、いつの時点で東洋鋼鈑下松工場などに投入されたかは不明であるものの、四三年七月以降は、山口県警察部労政課が調べた「職工移動状況調」の中でその事実が確認され、特異な工場地域であったことが判明する。すなわち同年十月には、県下の「重点工場」の中に入っていた笠戸船渠下松造船所・東洋鋼鈑下松工場・日立製作所笠戸工場の三工場について、「集団移住朝鮮人」が笠戸船渠に五〇人、東洋鋼鈑に二一八人、また、「俘虜」が日立製作所に一五四人ほど記入されており、これ以外には、徳山市の徳山鉄板に「集団移住朝鮮人」があげられているだけであった(「職工移動状況調」山口県労政課)。
 その後、一年七カ月を経た四五年五月には、表8に示したとおり、東洋鋼鈑に四一九人、日立製作所に四七人の「集団移住朝鮮人」労働者があげられており、その数が倍増している(「昭和二十年国民義勇隊一件」)。このうち、とくに「集団移住朝鮮人」労働者が多かった東洋鋼鈑では、四二年九月に、「朝鮮人隊長外三三人」が労働賃金の支払方法の改正を求めて罷業を計画したり、四四年四月には、「移入朝鮮人労務者」二四八人中の八人が、雇用契約期間の満了にもかかわらず、帰国できなかったことから、同盟罷業を行うなどの騒ぎが発生している(「特高月報」一九四二年九月、同四四年六月)。これらの部分的な記録によっても、連行された朝鮮人が苛酷な労働を強いられていたことが容易に想像されるのである。
表8 集団移入朝鮮人労働者の動員先
(1954年5月5日現在)
工 場 名
ヤマ8004工場(日立製作所笠戸)47
〃 5502 〃 (東洋鋼鈑下松)419
〃 9202 〃 (東亜化学興業防府)43
〃 2501 〃 (小野田セメント製造)50
理研金属宇部工場163
宇部興産宇部鉄工所47
ヤマ6508工場(宇部セメント)94
林兼重工業49
東洋高圧彦島工業所150
従業員100人以上の主要工場。「昭和20年国民義勇隊一件」より作成。

 また、陸軍省と運輸通信省が共同管理する日立製作所笠戸工場には、四三年十月の時点で、福岡俘虜収容所第七派遣所が開設され、オランダ国籍の俘虜一五四人が送り込まれて、最も作業環境の悪い鋳物工場で強制労働をさせられている(「職工移動状況調」、「特高月報」一九四四年六月)。ところが、翌四四年四月、その監視兵二十数人が引き揚げたことに伴い、会社側の選抜した警備員がオランダ人俘虜の監視に当たるようになったため、あつれきが生じて、第七派遣所長の「俘虜優遇」が俘虜の「怠慢」かつ「反抗的」な態度の原因になっているという非難から、県警察部特高課の「内偵」を受ける事態に立ち至った。その結果、所長はキリスト教信者で、「外国崇拝の観念」に基づいて必要以上の「厚遇」をし、それが俘虜の「増長」を招来したとして、ついには憲兵隊当局の知るところになり、五月四日、所長と俘虜全員の引き揚げとなっている。結局、この問題は、兵器製造を至上命令とする日立製作所の過酷な労働条件下に置かれた日本人労働者が、弱者の立場にある敵国俘虜に対して、激しい憎悪を燃やし、その矛先を監視責任者に向けた差別事件であった。まさに戦時下で起こるべくして起こった悲劇であったといえる(同、一九四四年六月分)。