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工場の被爆

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 戦局が悪化し、一九四四年十一月に東京が爆撃されて以後、日本全国で空襲に備えるための防空壕掘りや住宅疎開が始まった。とくに下松市は、瀬戸内海沿岸に工場地帯が連なる山口県下にあって、海軍工廠のある光市と海軍燃料廠のある徳山市に隣接し、大規模な兵器製造工場を擁していたことから、軍事的にも空襲を受ける可能性が強く、四五年三月の小野田市の被爆以後、市民の緊張感は高まっている。事実、下松市域の軍需工場は、四五年五月十日以降、合計六回の空襲を受けることになり、その被害は大きかった。
 第一回目の空襲は、五月十日の午前九時四三分から一〇時五六分の間、岩国市から徳山市にかけて、B29三〇〇機の来襲による爆弾攻撃であった(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、下松市内では、法蓮寺の市営火葬場付近二カ所と、花岡区上地の花咲橋上流一カ所に被弾し、負傷者四人、建物損壊三戸であった(「下松市事務報告書」一九四五年)。第二回目の空襲は、六月三十日の零時一二分から一時五〇分の間、下松市域の工場地帯にB29三〇機の来襲による爆弾投下で、日立製作所笠戸工場を中心に、最も多くの犠牲者を出した(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、下松市においては、日立製作所笠戸工場と日本石油下松製油所、上下恋ケ浜、二反堤に被弾し、死者六四人、負傷者一六人、建物損壊六九戸で、そのほか、道路と鉄道に被害を受けた(「下松市事務報告書」一九四五年)。第三回目の空襲は、七月十五日の午後一一時から午前一時〇五分の間、光市から宇部市にかけて、B29(機数不明)の来襲による爆弾攻撃であった(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、下松市内では日本石油下松製油所と日立製作所笠戸工場、洲鼻、高砂町、中島町裏に被弾し、死者五七人、負傷者三六人、工場以外の建物損壊七二戸、船舶損壊一六隻で、そのほか、道路と水田が破損した(「下松市事務報告書」一九四五年)。

日立笠戸工場の被爆(1945年6月30日)
(日立製作所『笠戸工場史』より)


日本石油下松製油所の被爆(1945年7月15日)

 第四回目の空襲は、七月二十二日の午後一一時二二分から午前一時四〇分の間、下松市から山陽町にかけて、B29四二機の来襲による爆弾攻撃であった(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、市内東部の工場と、荒神川鉄橋付近に被弾し、工場以外の建物の損壊は三戸であった(「下松市事務報告書」一九四五年)。第五回目の空襲は、七月二十五日の午前七時三〇分から午後三時の間、岩国市から下松市にかけて、艦載機一〇〇機の来襲による小型ロケット弾攻撃と機銃掃射であった(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、市内の笠戸船渠笠戸造船所と、江ノ浦に被弾し、死者二人、負傷者九人で、工場以外の建物損壊は一一戸であった(「下松市事務報告書」一九四五年)。最後の第六回目の空襲は、七月二十八日の午後四時二〇分から同三〇分の間、岩国市から豊東村にかけて、小型機と大型機(機種・機数不明)の来襲による小型爆弾攻撃と機銃掃射であった(「長官事務引継書」一九四五年)。このとき、下松市にあっては、笠戸船渠笠戸工場と、江ノ浦に被弾し、死者三人、負傷者九人で、そのほか、田畑の損壊であった(「下松市事務報告書」一九四五年)。
 とくに、二回目と三回目の爆撃による被害は甚大で、下松市域の軍需工場は壊滅的な打撃を受け、工場労働者やその家族の中から多くの犠牲者を出し、同時に、市街地の焼失で、市民の中からも、多くの罹災者を出した。また、第二回目の六月三十日の空襲で、豊井国民学校が爆撃されたことから、急きょ、市内の下松・豊井・公集・中村・花岡の各国民学校の初等科児童を縁故者のもとに疎開させたり、市街地にある小学校の「御真影」を、久保国民学校の「奉安所」に移したりして、慌ただしい日々が続いた。