一九三九年四月、政府は「米穀配給統制法」を公布し、日中戦争の激化に伴う食糧需要の増大に対処する米穀統制を始めたが、同年の夏には西日本一帯の大旱魃が発生し、翌四〇年から食料不足が一段と深刻化した。そのため、国と山口県は、繰り返し「節米」を通達して、「戦時食糧報国運動」を開始した。とくに、山口県下では、三九年の旱魃による被害が大きかったことから、四〇年七月を期して、町内会・部落会による徹底した食糧報国運動が展開され、耕地に恵まれない山間部の米川村においては、県の指令に基づいて、厳しい「節米実施計画」を立てている。すなわち、米川村の場合、事前調査によると、全世帯四三三戸のうちの農家は八八パーセントで、そのすべてが麦四〇パーセントの混食をしており、また朝夕二度、雑炊や粥を食べている乏しい状態であったが、それをさらに白米を一人一日二合九勺の割に節減させ、不足する米は、麦・馬鈴薯・ウドン・ソバ・豆などで代用させることとして、約一〇〇〇俵余の「余剰米」を生み出させる計画であった(「昭和十五年米川村庶務一件」)。
この節米運動は、その後、四〇年八月に「戦時国民生活規制」が実施され、飲食・遊興・遊覧・旅行などが「不健全なる生活」として抑制されるさい、①麦三〇パーセント以上の混食を行い、代用食の徹底を計る。②官公衙・銀行などの食堂において、米の昼食を廃止する、と具体的に規定され、さらに同年十一月から始まる米穀の国家管理制度に引き継がれて、ついに翌四一年十月には、下松市や下松市農会などが、農家・地主の自家保有米を一人一日当たり、七歳以下二合、八歳以上三合三勺に規定したように、いよいよ厳しく実施される国家統制の「報国運動」であった(村上家文書「米穀の国家管理並検査について」:一般社会通達書類綴」)。