日中戦争の激化に伴う兵器や軍需製品の増産は、たちまち乏しい国内の鉱産物資源を枯渇させた。そのため、政府は一九三九年二月に、ポストやベンチなどの一五品目を「不要不急品」に指定して、まず鉄資源の回収から始め、ついで、金・銅・アルミニウム・ニッケルなど、あらゆる金属資源に回収範囲を拡大して、国民からこれらの製品を「供出」させる運動を展開した。
下松町の場合、まず三九年二月に「鉄資源回収週間」を実施するに当たり、各区長に通達を発して、それぞれの家に「死蔵」される鉄や金物類を指定の問屋に売却させ、その代金を区や部落などの公共用費に充てるよう周知徹底させている(「昭和十四年分庶務一件」下松町役場)。さらに、同年七月になると、下松町やその周辺の村々も、国や県の指示に基づいて、一斉に住民の金保有状況の調査を行い、翌四〇年十月には、「金売却強調運動」を徹底し、その売即を督促する一方で、町内会や婦人会に対して、金貨・金指輪・金時計など、金製品の政府への売却を申し合わさせるなど、国策に沿って、強制的な金資源の回収を進めている(「金売却強調運動要綱」米川村役場庶務一件)。その後、金属回収はますます強化され、下松市にあっては、四一年七月に「廃品回収」を行って、市内各地域から、合わせて鉄屑一〇七六トン余、銅屑一〇トン余を集め、さらに十一月には、「金属類特別回収」をも実施している(「昭和十六年事務報告書」下松市役所)。
そして、翌四二年になると、市内の寺院と神社から、合計一一八個、一三一七貫の梵鐘を供出させるに至り、翌四三年には、一月から三月にかけて、「民間金属類特別回収」を実施し、弘中伝人市長が先頭に立って、柵格子・欄干・溝蓋などの重量物を回収し、銅類約七八〇〇貫、鉄類約三万三六〇〇貫を大々的に集めた。さらに、同年六月と十一月の二次にわたる「金属非常回収」では、銅一四四五トン、鉄一万八〇五五トンを回収している(「昭和十七・十八年事務報告書」「関門日報」一九四三年一月十六日付)。とくに、この四三年二月の「金属非常回収」で、花岡出張所前庭に保存されていた幕末四境戦争時の大砲二門が、また、十月には、閼加井坊の弘法大師像が、「赤襷」で「出征」している(同、二月八日、十月十一日付)。さらに、この四三年の一月、銅貨やニッケル貨、アルミ貨などが、各町内会ごとに回収されて、紙幣に引き替えられ、翌四四年には、座布団綿の回収に始まって、鉄の「非常動員」、アルミ製鍋蓋の「献納」運動などが徹底して行われて、日常生活から金属製品が姿を消し、変わって木竹製品や陶器類、あるいは粗悪なベークライトなどの「代用品」が、身の回りに目立つようになってしまった。