日中戦争の開始とともに、軍隊などへ諸物資を「献納」することが、「銃後」の国民の義務になり、乏しい庶民の生活を一段と苦しめた。すなわち、一九三七年八月、農事組合や婦人会あるいは町内会や部落会を通して、「国防献金」が開始され、続いて毛髪の献納や、軍隊への梅干や慰問品の献納を経て、翌三八年には、毛布の献納が行われている。さらに、太平洋戦争の開始以後、国民は一段と欠乏生活に追い込まれ、四二年二月に始まった衣料の切符制度に耐えなくてはならなかった。しかし、その衣料切符さえ献納させようとする運動が起こされており、下松市においても、婦人会部長を督励して、各団体ごとに「衣料切符点数献納書」を取りまとめさせ、市長宛に提出させている(「令達綴」村上家文書)。
また、その一方で、軍用飛行機の献納運動も開始されている。三九年九月、都濃郡町村長会が、道府県町村長会の呼び掛けに応じて、「町村長号」一機の献納のために、町村長一人あたり私費一〇円の拠出献金を決定したことを契機に、四二年四月には、花岡信用購買販売利用組合が、山口県全産業組合による「産業組合防長号」二機の献納計画に対応して、組合員一人一円を標準に、合計六〇五円の割当額を拠出するように計画した。同様に、各地の産業組合もそれぞれの割当額を献金するために、一斉に動き始めている(「昭和十四年米川村庶務一件」、村上家文書「一般社会通達書類綴」)。その後、この軍用飛行機献納運動はさらに拡大し、下松市の場合、「一家一食三銭」ずつの「感謝献金」をスローガンに、各町内会を督促し、六月には、艦上式戦闘機一機を「下松市民号」と命名して、海軍に献納した(「関門日報」五月四日付、村上家文書「令達綴」)。ところが、その精算の結果、市民からの献金は、予定額を二万円以上も越えており、この処分を検討した下松市常会は、引き続き募金活動を続けることにして、同年十二月陸軍に軍用機一機を献納した。さらにその後も募金を継続して、ついに翌四四年九月には、三機目の目標額に到達させ、「下松市民号」の第三号機として、海軍に献納したのであった(「関門日報」一九四三年七月二十四日、十九年五月一日付)。
このような運動の背後には、下松高等女学校の生徒が、四三年の夏休み期間中、日立製作所笠戸工場で「勤労奉仕」して得た謝礼金二六二円に、さらに三円を付け加え、そっくり海軍への軍用機献納資金に献金した例もあり、その苦労が新聞紙上で「美談」として鼓舞されているように、あらゆる市民が献金を競わされていたのである(同、九月二十六日付)。