地域社会で生活をともにする若者が所属した各地の青少年団体は、軍隊への志願者や、軍需工場への徴用者が続出するにつれ、その活動機能を弱めていた。この青年団が、一九四〇年に始まる「新体制運動」の中で、大日本青少年団に統合され、「尽忠報国」の掛け声に駆り立てられて、戦時国策への献身活動を強く求められるようになった。下松市においては、四一年四月、約三〇〇〇人の青年男女を下松国民学校に集めて、「新体制」に対応する青少年団の結成式を挙行しており、太平洋戦争が始まった同年十二月には、「要地青少年団」として、「下松大隊」に指定された。そのため、下松市は、市内の各青年学校区ごとに配置した「中隊」の幹部一五〇人を集めて、「臨時体制講習会」を開催し、非常事態に備えさせている。その講習課目は、①青少年団臨戦体制、②動員ト青少年訓練、③防空教育、④救急措置(実地)、⑤防諜、⑥空襲対策、⑦焼夷弾訓練(実地)であり、下松市内の青少年が、巨大な軍需工場の所在する工業都市の青少年団員として、いかに特殊な役割を担わされ始めていたかが読み取れる(「昭和十六年事務報告書」下松市役所)。
また、翌四二年には、「戦時青少年団実践四大要目」として、①必勝ノ信念ノ堅持、②国土防衛ニ挺身、③職域奉公ニ邁進、④積極的ニ心身ヲ鍛練スルコト、が課せられ、団員は神餞田の経営、広島陸軍補給廠での軍隊奉仕、貯蓄・債券割当額の消化、慰問袋・慰問文の発送、肥料増産の草刈り、廃品の回収、稲の刈り取り、災害地の清掃など、各地の勤労奉仕に動員されている。その一方で、防空・防災訓練や体練大会などに参加しなければならず、青少年は慌ただしい日々を送っていた(「昭和十七年事務報告書」下松市役所)。さらに、翌四三年には、青年学校の統合をきっかけに市内の各国民学校区域を一単位団として、国民学校の校長が「中隊長」に任命されることになったことから、その「指揮」のもとで、ほとんど女子ばかりになった青少年団員が、「羊毛資源」の収集や「草刈報国大会」の開催、あるいは「満蒙開拓青少年義勇軍激励袋」の募集や「少年兵志願総決起大会」の開催などに励んだのである。まさに「軍国少年」と「軍国少女」に徹する毎日の生活であったといえよう(「昭和十八年事務報告書」下松市役所)。