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婦人会と女性の暮らし

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 日中戦争の激化に伴い、男性が戦地や軍需工場に次々と動員されたため、地域社会に残った女性の肩に、さまざまな「銃後」の負担が重くのしかかった。軍事援護団体として組織されていた「愛国婦人会」や「国防婦人会」などが、競って軍人慰問品の募集や防空活動を行うようになったため、多くの女性は、毎日の生産活動と家事に追われながら、これら婦人会の主催する援護事業の重みに耐えなければならなかったのである。ことに、一九四二年二月、中央において、「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」と「大日本連合婦人会」が「大日本婦人会」に統合されると、下松市にあっても、この動きに対応するため、同年五月に、それぞれに所属する支部を合併して「大日本婦人会下松支部」を発足させており、二〇歳以上の婦人の強制加入による約六〇〇〇人の会員で、戦争遂行の支援体制を強めたことから、ますます婦人の負担が大きくなっていった(「昭和十七年事務報告書」下松市役所)。
 この四二年、大日本婦人会下松支部は、その事業種目を、
  1、託児所開設
  2、慰問文・慰問袋ノ発送
  3、出征・戦没遺家族ノ慰問
  4、敬老会開催
  5、生活科学講演会
  6、健民講演会、健民主任設置
  7、必勝国民貯蓄ノ増強
  8、稲刈奉仕
  9、災害地ノ炊出シ
  10、戦没勇士ノ墓地ノ清掃
  11、陸軍病院慰問
としており、婦人会員は多忙な日々を懸命に生きなければならなかった(同)。また、戦局が悪化した翌四三年になると、下松支部の活動は、「婦人ノ決起」を目標に掲げ、
  一、誓ッテ飛行機ト船ニ立派ナ戦士ヲ捧ゲマセウ
  二、一人残ラズ決戦生活ノ完遂ニ参加協力イタシマセウ
  三、長袖ヲ断チ決戦生活ノ実践ニ決起イタシマセウ
の三項目を「申合事項」に決め、その第一項目については、「時局認識ノ強化」や「家庭教育ニオケル子弟感ノ刷新」などを、第二項目については、「食糧・軍需諸生産ニ対スル協力精神」や「勤労報国隊ノ編成・整備」などを、第三項目については、「戦時衣生活ノ簡素化」や「必勝生活ノ刷新」などを具体的に申し合わせて、「国家ノ要請」に応えようとしていたのであった(「昭和十八年事務報告書」下松市役所)。さらにこの婦人会は、四五年になると、「本土決戦体制」の確立のために、「国民義勇隊」の中に改変されることになり、「軍国女性」として、「竹槍」などの過酷な戦闘訓練が施されることになった。