戦時下の一九四〇年四月、一七歳から一九歳の男子青年の体力検査を義務づける「国民体力法」が公布され、その一環として、乳幼児の体力の向上や、妊産婦の健康増進にも力が入れられることになった。とくに、乳幼児の検診は、「人的資源」の「消耗」が激しく進行している戦時下にあって、その増強を不可欠とする国家的な要請に応えるための対策であり、それと同時に、「銃後」の婦女子の体力が著しく低下していることから生じる深刻な問題でもあった。下松市の場合も、四一年七月に実施した乳幼児の一斉検診の結果、「廃疾」あるいは「栄養不良」で、「要注意」と診断された者の割合は、全体の六・八パーセントであったが、その翌年の検診では二七・八パーセントになり、さらに翌々四三年には、三六・一パーセントにまで急上昇して、戦争による婦人の健康破壊が急速に進行していることを明確に物語っている(「昭和十六-十八年下松市役所事務報告書」)。
そのため、四二年から下松市は「要注意」と診断された乳幼児に対して、保健婦の巡回指導を開始するとともに、同年七月からの妊産婦手帳制度に対応して、一四五〇人の妊産婦に手帳を交付し、乳幼児の保護と妊産婦の健康増進を図り、「産めよ育てよ」を目標とする「国策」の一端を担った(昭和十八年同)。また、「大日本婦人会下松支部」も、各町内会の健民部と提携して、母子の保護と指導に当っている。さらに、四三年二月、下松市が女性の「早期結婚」を促すために、結婚相談所の開設を計画すると、それに応じて、方面委員を主体とする三六人がその結婚斡旋員となって、各地区内の青年男女を調査し、結婚の取りまとめを始めている(「関門日報」二月十九日、六月四日付)。このように、戦時下の女性も、男性に劣らず、生活のあらゆる部分で、「国策」に従属させられていたのである。