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住宅不足と家屋疎開

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 戦時工業の急激な膨張に伴って、下松市の人口は著しく増加し、市制二年後の一九四一年十二月の時点で、人口三万七三三三人、世帯数七六七四戸となっていた。とくに、下松市への入寄留者は六三二〇人で、出寄留者三一一二人の二倍以上となっており、この人口膨張傾向はその後も続き、翌年末には三万七六一二人・七七五四戸、翌々年末には三万九一九五人・八一七二戸となっている(「昭和十六-十八年下松市役所事務報告書」)。
 そのため、市内の住宅不足が深刻になり、四二年になると、下松市は企業や住宅営団と連携して、住宅の供給促進を図ったが、住宅難は一向に改善されず、家賃の急上昇は市民の生活を圧迫することになった(「昭和十七年事務報告書」下松市役所)。したがって、下松市の社会課は、翌四三年八月から、貸家組合の設立を計画して、市内の貸家・貸室業者を徹底的に調査し、九月には貸家業者二十数人を集めて、十二月に協議会を発足させ、住宅難の緩和に努めさせている(「関門日報」八月三日・九月十日・十月二十四日付)。しかし、四四年三月ごろから、大都市の「人口疎開」が始まり、大阪市などから下松市に帰郷する者も増え始め、住宅難に一層の拍車がかかってしまった(同右、四月五日付)。その上、四五年になると、工場都市としての下松にも、空襲が予想されることになり、下松市が、大工場に隣接する市内二宮町において「周辺疎開」家屋七二戸と、市内必要個所において「間引疎開」家屋二〇〇戸を計画して、その取り壊しを開始したことから、市内の住宅事情は戦争の末期において最も悪くなっていた(「昭和二十年事務報告書」)。結局、下松市の疎開事業は、「周辺疎開」五戸と「間引疎開」五四戸を完了したところで終戦となり、その補償総額は四五万四七二二円であった(同)。