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郷校と寺子屋

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 近世の教育は、武士階級の子弟を対象とした藩学と下級武士や庶民階級の子弟を対象にした郷校および一般庶民の子弟を対象とした寺子屋、私塾、家塾によって行われた。一六五〇年(慶安三)毛利秀就は、防長両国を一八の行政区域に分けて、それぞれ宰判を置くこととし、花岡に都濃宰判が設置された。一八六七年(慶応三)四月、文武の興隆に意を注いだ毛利敬親は、宰判ごとに郷校を設立する方針を示した。これによると都濃宰判にも郷校が設置されるはずであり、さらに翌五月の通達で萩明倫館の管轄下におかれることになっていたが、現存の郷校資料にその名が見えない。したがって何らかの事情によって都濃宰判内の郷校は実現に至らなかったのであろう。
 各藩における殖産興業、販路拡大等の経済活動が活発になり、米穀経済は貨幣経済へと移行した。このような情勢のなかで、大名の参勤交代制の影響も加わって、町人の新たな台頭が、一般社会の生活・文化の向上を促した。社会の進展に伴い、庶民も日常の生活上に読み、書き、そろばんの知識を必要とし、それに即応する教育機関として、寺子屋・私塾・家塾が急速に普及、発展するに至った。寺子屋・私塾は、僧侶・神職・武士・農商の学識者によって、生活上必要な読書・習字・算術等を授けた所であり、家塾は、漢学・国学・数学・洋学等の専門の学者によって知識を授けた所であるが、後にはこれらを一括し「家塾」と称したこともある。防長二カ国における寺子屋は、一七八一年(天明元)以降普及が顕著となり、幕末維新期には寺子屋の数は長野県に次ぐ全国第二位の高水準に達した。
 下松市域内においては、一七八五年(天明五)、徳山藩校鳴鳳館の創立と同時に、神職村上直絽が末武下村尾尻に教導館を開設したのを初めとして、多くの人々によって寺子屋が開かれていった。時代別、地区別にみると表1のようになるが、前後の時期にまたがっているものもある。
表1 下松市域における寺子屋と開設者
時代
地区
1804―1864
(文化元) (元治元)
1865―1867
(慶応元) (慶応3年)
1868―1874
(明治元) (明治7)
末武上
・中村
石田潔   津村秀山
村上基徳
村上基福増野与三
久保原田治衛  虚白禅師
林 政信  石田義蹄
原田重庸  武居源五平
山本広敬天階禅師    石田義順
武田孟之進   藤本法城
高村友七    桑島竜斎
原田三介    玉井栄左衛門
田中庄左衛門  今田誠司
林 政延    林繁鞆
近藤頼母
米川安田信次郎内富恒庵西村楯間佐   宗本大悟
官田恵鏡    坪井観淳
下松柳蓑左衛門  井村正人
飯田柔平
宗本仏鎧    宗本心月
榎宮契典    重岡清助
斉藤力蔵    相本要助
有芳健輔    斉藤某
村上某
末武南村上敏雄   中村一現森重亀之助  三木三喜太
桂誉三   田村次郎右衛門
清木某    高橋某
古谷某
笠戸島崇準

 寺子屋は、師匠(塾主)の純粋な教育的情熱と寺子(生徒)の真摯な向学心により、強固な温情的師弟関係で結ばれていた。報酬については、多くは入門時に束脩(そくしゅう)として、藩札三匁ないし一〇匁程度、あるいは酒類等(入学金)を納め、また謝礼として、年末、年始、盆、五節句に藩札三匁から五匁程度、あるいは土地の産物等を持参して謝意を表わした。
 学習に使用した教科用書は習字では、平仮名、片仮名、名頭(ながしら)字、村名付、国尽(くにづくし)、諸証文、商売往来、百姓往来、庭訓往来など、読書では、実語教、童子教、占帖女大学、孝経、四書などが用いられた。学習年限は、各寺子屋で異なり、五、六年程度が多かった。
 一八七二年(明治五)の学制公布にさいし、県は小学の不足を補い、また小学への移行を円滑にするため、家塾を認めていたが、翌年七月「家塾規則」を定めて、その開設を規制し、監督を厳しくした。「明治六年許可家塾開申表」(県、官進達)によると、本市域内においては表2の家塾、寺子屋が許可されている。さらに七六年十二月には、「家塾取締心得箇条」を定め、家塾(寺子屋)は辺地のみに認めることに改正して初等教育の刷新を図った。
表2 家塾と寺子屋
地名教科生徒数塾主
末武上村読書、習字32士族(神)  村上基福
末武下村22同      桂誉三
習字53僧    震動(津村)秀山
32同    松村(中村)一現
下松村読書、算術、習字8医      飯田柔平
8雑業(商)  斉藤力蔵
22同      有芳健輔
56士族     井村正人
瀬戸村26医      内富恒〓(庵)
河内村51農     田中庄左衛門
(田村哲夫「山口県小学校の系譜」による)