一八七一年の廃藩置県によって、中央集権的な国家体制の基盤が確立し、政府は文教行政においても全国的に統制するため、文部省を設置した。維新政府にとって、当面する重要な課題は、文明開化・富国強兵によって、先進国に並ぶ近代国家を建設することであった。このためには、国民の国家意識の形成や人材の開発が急務であり、全国を統一した教育制度の確立が不可欠であった。
政府は、七二年七月、太政官布告をもって学事奨励に関する「被仰出書(おおせいだされしょ)」を頒布した。このなかで「学問は身を立てるの財本(もとで)である」として、国民教育の必要性、重要性を述べ、「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」として、国民皆学の基本方針を示した。ついで八月、文部省は右の布告を序文とした「学制」を公布し、わが国近代教育制度の確立を図った。これによって、全国の文教行政は文部省が統括することをあらためて明示した。それに、学区制を設けて全国を八大学区(翌七三年七大学区に改正)に大別し、一大学区を三二中学区に、一中学区を二一〇小学区に分け、それぞれの学区に大学校、中学校、小学校各一校を設立することとした。小学校については、尋常小学を正規のものとし、地域の事情によっては、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学および変則小学を設けることを認めた。尋常小学は、下等小学(六歳から九歳までの四年)と上等小学(一〇歳から一三歳までの四年)の二段階を設け、男女ともかならず就学するよう指示した。また、小学校の設立、運営、教師の給与等一切の費用は、受益者負担の原則にたって、小学区の責任とし、その経費を補うため、授業料の納入を義務づげ、小学校では一カ月五〇銭(二五銭の段階もあった)とした。しかし、この授業料は当時の民情からしてあまりにも高額に過ぎたので、ほとんどの小学区では、地域の実情に即して低額の授業料を徴収した。それでもなお、この負担からのがれるため、寺子屋に入るもの、小学校から寺子屋に転ずるもの、あるいは授業料を滞納するものが続出する状態であった。
各中学区に地方官の任命する「学区取締」(一〇名ないし一三名)を置き、受持ち小学区内の小学の設立、保護、費用および学齢児就学の督励など、一切の学務処理に当たらせ、その推進を図った。さらに文部省は七二年八月に「小学教則」を布達し、下等・上等小学の課程を各四カ年・八級に分けて毎級の習業を六カ月とし、各級の教科課程を明らかにし、教授方法の大要を示した。