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創始期小学の推移

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 一八七二年、県は学制と小学教則に準じて「学喩」と「山口県中小学章程」を布達した。学喩は学制序文の趣旨を敷衍(ふえん)して、県民教育の必要性を説き、本県教育の基本方針を示したもので、中小学章程は県内における中学・小学の学区と課程を定めたものである。
 大学区は学制で第五大学区(現在の広島、山口、島根、鳥取の四県と岡山県の一部が属し、大学本部は広島に設置)に指定され、翌年には第四大学区に改められた。県内の中学区は中小学章程で、旧藩政時代の行政区に従って、山口(徳山藩は一八七一山口藩に合併)、萩、岩国、豊浦の四中学区に分けられ、それぞれの藩校を中学とした。下松市域が属する都濃郡は、山口第一中学区となり、五小学区が設定された。
 小学校の課程については、教員、教科用書、施設、設備等が全備していない実情から、上等小学、下等小学の教育課程を統合して五級の変則小学とした。小学校の授業料は七二年、県の指示で、学制に定められた金額によらず、県下の実態に即し、児童一人二銭八厘九毛、二人以上二銭一厘九毛、貧窮の子弟は一銭四厘五毛あるいは七厘として授業料の暫定的な基準を示した。
 翌七三年、四中学区を六中学区(第二十三番から第二十八番中学区)に改めて、本市域は第二十五番中学区(都濃-徳山、徳地、三田尻)に指定され、小学区(徳山部、都濃郡部合併による小学区割改正届-学区取締七三年八月提出)をつぎのように規定した。
第五番 花岡小学区-花岡、末武上村、末武中村、久米、生野屋、山田、来巻、切山、譲羽、久保市、峠市、岡市
第六番 須々万小学区-須々万本郷、同奥村、長穂、下谷、瀬戸、温見、大藤谷、大道理、大向
第七番 下松小学区-下松、末武下村、東豊井、西豊井、河内
 七三年の「旧徳山部、旧都濃郡部諸学校番号順序左之通改正」によれば、管内に九小学があり、第五番下松小学、第六番末武小学(間もなく花岡小学と改称)の二校が記載されている。
 この二小学の設置につづいて、翌七四年までに旧小村単位の設立が進み、
[花岡地区] 生野屋小学、西河原小学
[久保地区] 来巻小学、切山小学、久保市小学、山田小学、河内小学
[末武南地区] 西市小学、大呑町小学、平田小学、笠戸小学
[米川地区] 瀬戸小学、温見小学、下谷小学、亀山小学
が開校した。しかし、当時の小学は、「明治八年山口県公立小学校表」によれば、寺子屋から転換したものが多く、寺院や民家を借りうけて仮校舎とし、教師も元塾主で一名という小学が過半数を占めるといった、正規の小学教育にはほど遠い実情であった。

都野郡部諸小学番号順序改正
(「明治六年学事録」山口県文書館蔵)

 このような小学校を整理し小学教育の刷新・向上を促進するため、県は七七年小学校の設置を規制し、同一小学区内に三校以上、学校間の距離二五町以下、戸数五〇未満で年間一二〇円以上の学費が支弁できない地域には、小学の設立を許可しないこととした。
 一方、変則的な課程で発足した小学校は、その後学制の規程と県下の実情にそい、七八年一月に小学教則をさらに改正し、簡易科二年(四級)、尋常科四年(八級)の六年制とした。簡易科は日常生活に必要な基礎的知識を授けることにして県下一律に修学させ、尋常科は簡易科の修了者が進級することにした。これによって都市部・農村部間の地域差の是正・教科の適正化をはかり、小学校教育の普及・振興を促進した。