学制は西欧先進国の教育制度を参考にして作成されたもので、実に整然とした学校体系であった。しかし、あまりにも理想に過ぎ画一的であって、当時の国情や民度になじめないところが多かったため、一八七九年にこれを廃し、新たに「教育令」を公布した。
その主要な改正点は、
(一) 大中小の学区を廃し、町村に公立小学校を設置すること、
(二) 任命による学区取締りに代えて、町村人民の選挙による学務委員を置き、町村内の学事を管理させること、
(三) 公立学校の設置・廃止には、県令の認可を、また公立学校の教則は文部卿(きょう)の認可を、それぞれ必要としたこと、
(四) 学齢は、学制と同じく六歳から一四歳までの八カ年とし、少くとも一六カ月は普通教育を受けること、
(五) 公立小学校の学期は、従前どおり八カ年とし、地域の便宜によっては、四カ年まで短縮できること、
(六) 学校を設置する資力に乏しい地方では、教員巡回の方法を設け、また小学校に入学しなくても、別に普通教育を受ける途のあるものは、就学とみなすこと、
(七) 公立学校を補助するため、文部卿より毎年補助金を各府県を通じて各公立小学校に配布すること、
などであった。
ところが教育令によって、学制期の統制、干渉がゆるめられたため、小学校設置の停滞、児童就学の低下など憂慮すべき状況になり、翌八〇年には教育令を改正して、再び文部省による小学校教育の推進や取締りを強化した。当時これを「改正教育令」と称した。これによると
(一) 各町村は、県令の指示に従い、独立あるいは連合して、その学齢児童を教育するにたるべき一校もしくは数校の小学校を設置すること、
(二) 学務委員は、町村人民が選挙した者の中から、県令が選任し、その監督下におくこと、
(三) 小学校の学期は、三カ年以上八カ年以下と定め、三カ年を義務教育とし、毎年少なくとも一六週以上は出席させること、
(四) 学制以来の小学補助金を中止すること、
などが決められた。小学補助金の打ち切りは、貧弱な町村財政にとって大きな打撃であった。
つづいて文部省は、八一年に改正教育令の施行細則にあたる「小学校教則綱領」を布告して、小学校を初等科三年・中等科三年・高等科二年の三等とし、各等における教育課程の基準を示した。
さらに八五年には、当時の経済界の不況や農業の凶作による深刻な農民生活に対応するため再び改正教育令を改め、地方の実情にそうよう初等教育の簡素化を図った。資力の乏しい地域にあっては、小学校以外に寺社や民家の一部を利用する「小学教場」で、半日授業・夜間授業もできることとし、さらに「巡回授業」による方法も認めた。しかし、この新教育令はわずか八カ月で廃止されたので、その実効はほとんどみられないで終わった。
山口県は一八七九年、再び教則を改めて、前年に施行した簡易科二年・尋常科四年を簡易科三年・尋常科三年・高等科二年に延長した。八一年の小学校教則綱領による新課程は、本県の教則と同様であったが、これによって簡易科を初等科、尋常科を中等科と改称した。
教育令期における本市域の小学教育は、県の教則改正に従って改められ、また一方、前述の小学校設置に関する規則(一八七七年)もあり、教育の効率化、財政の合理化の立場から、小学校の統廃合が、左記のとおり積極的に推進された。
[末武南地区] 一八八一年、西市小学、平田小学、大呑丁小学、教導館等を統合して公集小学校を創立した。したがって平田小学の深浦巡回授業所・笠戸分教場は廃止して公集小学校の分校となった。
[久保地区] 八四年に、山田小学、来巻小学、切山小学、河内小学、久保市小学を合併して東陽小学校を創立した。
[花岡地区] 八四年、生野屋の高陽小学および中村小学を花岡小学校の分校とし、高陽分校は八七年に廃止した。
[米川地区] 八四年に、譲羽小学瀬戸分校が独立して瀬戸小学校となり、下谷、温見、亀山の元譲羽小学校分校を瀬戸小学校の分校とし、翌年には下谷分校を本校に統合した。