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大正デモクラシーと新教育

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 大正時代に入って間もなく、欧州で第一次世界大戦(一九一四年~一九一九年)が勃発し、わが国も連合軍に加盟して参戦したが、このことは、その後のわが国の政治や社会の動向に大きな変化をもたらした。
 一方、明治時代の欧米思想の流入や自由民権運動などによって育ってきた自由主義思想も、この時代に入ると活気を呈し、いわゆる大正デモクラシーとして脚光をあびるようになった。この思想は、学校教育の上にも大きな影響を及ぼし、従来の詰込式、画一的な教育を排して、自発的、創造的な教育、個性尊重の教育を目指した大正新教育(自由教育)が主張、展開された。県も、当初これを助成する態度を示し、教育現場でも教師自体による研究・実践が行われた。
 一九一七年(大正六)、政府は新たな国家情勢や国民生活に適応する教育政策を樹立するため、内閣総理大臣の諮問機関として「臨時教育会議」を設置し、学校教育、社会教育の全般について改善意見を求めた。その答申の中で、①教育の方法は画一の弊に陥らないこと、②小学校教育は、国民道徳の徹底、帝国臣民たるの根義を養うこと、③向学心の向上に対応して、高等小学校および中等教育とくに実業教育と高等教育にかかわる教育機関を拡充すること、などを提案した。これに基づいて、文部省は一九一九年、「小学校令」と「小学校令施行規則」を改正して、日本歴史・地理・修身・理科の授業時間を増し、高等小学校では手工・実業、女子生徒には家事を必須科目にした。
 他面、第一次世界大戦中、飛躍的に発展したわが国の工業・経済も戦後は一転して、深刻な不況、物価の高騰に見舞われた。このような状況の中で、社会主義運動、学生運動、労働争議、小作争議、米騒動が続発し、社会的、思想的に、不安・動揺を来たした。このような国情に対し、一九二三年(大正十二)に「国民精神作興ニ関スル詔書」を下して、放縦、軽挙の時弊を改め、国家の興隆、民族の安泰、社会の福祉を目指し、国民として守るべき道を示した。
 ところが、同年十二月、本県人の難波大助が摂政裕仁皇太子を狙撃した虎の門事件が突発し、全国民、とりわけ山口県民に青天霹靂(へきれき)の一大衝撃を与えた。この責任を負って、山本内閣は総辞職し、県においては、知事や警察関係の責任者が文官懲戒令の適用を受け、また犯人出身地の周防村長、小学校長、元担任訓導は辞職した。翌年、知事は告諭を発し、「古来、皇室に忠誠を尽してきた本県の歴史的伝統をふまえ、今後一層国家的観念の養成、国民精神の振興に努め、天壌無窮の皇運を扶翼し奉るよう」県民の猛省、奮起を促した。
 このころから、思想・言論に対する国の取締りが、一段ときびしくなり、自由主義も危険思想とみなされるようになって、自由主義教育は頓挫するに至った。