一九一四年(大正三)、第一次世界大戦が勃発し、戦局はしだいに拡大し、深刻化していった。このような状況のなかで、久原房之助は、世界的な船舶不足に対応し、かつわが国工業立国の国家的見地から、造船・製鉄を中心とする一大工業地帯建設の大構想をたて、天然の良港と塩田跡地を含む広大な平地に恵まれた下松地域にその用地を確保する方針を定めた。一七年以来、大規模な用地買収、埋立工事、工場建設等の準備が、着々と進められたが、同年の米国鉄輸出禁止措置により、わが国の造船界は、致命的な打撃を受け、当初の計画は極端に縮小しなければならない状態になった(第三章、1)。
しかし、わが国の工業は全体的にみれば、大戦の影響を受けて活況を呈し、県下においても、工場の建設は各地で見られた。このような情勢のなかで、久原房之助は、県下に、工業技術者養成の学校がないことから、その設立の必要を痛感した。また、一大工業用地の買収によせられた地への感謝の意をもって、下松工業学校設立費として、三三万円を県に寄付し、その実現を強く働きかけた。一方、宇部村においては、宇部共同義会から工業学校設立費として三〇万円が、県に寄付されていた。県は、この要請に応えて、二一年、下松と宇部に県立工業学校を創設した。下松工業学校は、機械科・応用化学科の編成で、公集尋常高等小学校の校舎の一部を借用して授業を開始し、翌年には、隣接地に建築された新校舎に移転した。