明治のなかごろまでは、普通教育の普及充実に重点をおいた施策が推進されてきたが、わが国の国勢や産業の発展に即応するため実業教育を加味した補習教育の振興が急務となってきた。
一八九〇年(明治二十三)公布の「小学校令」によって、尋常小学校と高等小学校に「補習科」を併置することや高等小学校においては、土地の事情によって農科・商科・工科の「専修科」を置くことができるようになった。また徒弟学校・「実業補習学校」も小学校の種類とし、その教科目と修業年限は文部大臣が定めるものとした。
さらに、日清戦争前後からは、産業労働の質的向上の必要が一段と高まり、九三年に、文部省は「実業補習学校規程」を公布して、勤労青少年教育の促進・充実を図った。この規程によって、
(一) 実業補習学校は、小学校教育の補習と同時に、生徒の従事する職業に必要な知識・技能を授くるところとして、その目的を明確にしたこと。
(二) 男女を混同することができないこと。
(三) 尋常小学校または高等小学校に付設できること。
(四) 入学資格は小学校卒業程度以上、修業年限は三カ年以内とすること。
(五) 教科目は修身・読書・習字・算術と実業を課すこと。
(六) 日曜日または夜間でも便宜教授することができ、土地の状況に応じ、季節を限って教授することができること。
などが定められた。
この規程は、一九〇二年(明治三十五)一月に改正された。その要点は実業科目に従来の工業・商業・農業のほか水産科目を加え、付設の範囲を小学校から実業学校・中学校まで拡大したことなど、実業補習学校が補習教育より実業教育に重点をおくようになった。
本県においても、同じ一九〇二年に「実業補習学校規程細則」を定め、さらに一九〇六年には、「実業補習学校施設要項」を示して、実業補習学校の設置・充実を促した。本市域における実業補習教育の整備は、明治末年になってからで、その設置の状況はつぎのようになっている。
[下松町] 一九〇四年に下松尋常高等小学校高等科に商業・農業の教科を加えて実業教育を取り入れた。翌年には女子補習科を付設したが、四年後には廃止となった。一九一〇年に下松女子実業補習学校を併設し、一九一七年(大正六)に男子部を加えて下松実業補習学校とし、さらに一九二八年(昭和三)下松実業実践学校と改称した。
[末武南村] 一八九五年(明治二十八)、深浦尋常小学校に高等科に代わって補習科を併設したが、四年後廃止された。
一九〇四年(明治三十七)に公集尋常高等小学校の高等科に農業科を取り入れたが、一九一〇年これを拡充して、公集農業補習学校を創設した。一九三一年(昭和六)、公集農業補習学校を公集実業実践学校と改称するとともに、笠戸尋常小学校に併設していた笠戸実業補習学校を笠戸実業実践学校と改め、また深浦尋常小学校に深浦実業実践学校を開設した。
[末武北村] 一九〇五年(明治三十八)に女子補習科を花岡尋常高等小学校に併設したが、一九〇八年、女子補習科を廃止して花岡女子実業補習学校を創設するとともに、男子の実業補習学校を開設した。一九一八年(大正七)に、花岡女子実業補習学校を花岡実業補習学校と改称したが、二五年には再び女子部が独立して花岡実業実践女学校となった。また中村地区では二二年、中村尋常小学校に中村実業補習学校を併設した。
[米川村] 一八九三年(明治二十六)米川尋常小学校に高等科に代わる二年制の補習科を併設したが、一九〇〇年、高等科設置によって廃止した。一九〇八年から高等科に農業科を加えたが、一九一一年には二年制の米川農業補習学校を併設し、一九二一年(大正十)、米川実業補習学校と改称した。
[久保村] 東陽尋常高等小学校に女子補習科を併置していたが、一九一三年に東陽女子実業学校と改め、さらに一七年に東陽実業実践学校と改称した。翌年男子部を加えて東陽実業補修学校と称したが、一九三一年(昭和六)になって再びもとの東陽実業実践学校と改称した。