昭和時代に入り、満州事変が勃発して戦時体制がしだいに強化される中で、政府は、一九三五年、「青年学校令」を公布し、既存の実業補習学校と青年訓練所とを統合して青年学校を発足させ、さらに三九年には、これを義務制とした。
本市域内各町村において三五年七月一斉に青年学校を開設した。当時の青年学校の運営は、各校ともほとんど同じ形態で実施されている。久保村立久保青年学校学則を例にとると、左記のとおりである。
[目的] 男女青年に対し、その心身を鍛練し、徳性を涵養するとともに、職業・実際生活に必要な知識・技能を授け、国民たるの資質を向上せしめる。
[課程] 普通科は男女とも二年(入学資格は小学校卒業者)、本科は男子五年、女子二年(入学資格は普通科および高等小学校卒業者)、研究科は男子一年(入学資格は本科卒業者)とする。
[科目] 男子普通科は修身および公民科、普通学科、職業科、体操科。男子本科と研究科は普通科の体操科が、教練科となるほか、普通科の科目と同じ。女子普通科と本科は修身および公民科、普通学科、職業科、家事および裁縫科、体操科。
[教授および訓練日] 男子は毎月第一・第二・第三日曜日の昼間に実施、女子の場合、普通科は毎週月・水・金曜日、本科は月曜日から土曜日までの昼間に授業。
[休業日] 小学校と同じ、ただし男子にあっては、夏季、冬季、春季の休業は行わない、となっている。
一九三八年に、下松尋常高等小学校舎と並んで、下松青年学校の校舎を新築し、市制施行後の四三年には、久保、花岡、末武南の男子青年学校を下松青年学校に統合して、独立の青年学校とし、指導陣の強化、施設の整備を図った。
これらの公立青年学校の他に、市域内四大工場においても、従来の技能工養成所に代えて私立青年学校を設立した。東洋鋼鈑下松工場では、一九三五年に東洋鋼鈑青年学校を開校し、毎年約三〇名を募集し、五年間で工業学校卒業程度の技術・学力の養成に努めた。日立製作所笠戸工場においては、三九年に日立笠戸青年学校を、四二年に女子青年学校に準じて淑徳女学園を開設した。またこのころ、日本石油精製青年学校、笠戸船渠青年学校も設立された。