一九三一年(昭和六年)九月に満州事変が勃発し、その後戦線は日華事変と拡大し、四一年十二月、太平洋戦争に突入した。このような戦局の推移に伴って、政府は戦時体制をますます強化し、学校もまた国家防衛の組織に組みこまれて、学業は二義的となり、学徒は戦争完遂の要員としてかりたてられるに至った。
一九四一年三月に「国民学校令」が公布され、明治以来なじんできた小学校は国民学校と改称された。この法令によって、国民学校は初等科六年、高等科二年を通じて八カ年を義務教育としたが、戦時非常措置法によってその実施は延期され、四四年二月には「国民学校令等戦時特例」によって、初等科のみを義務教育と改め、義務教育二年延長は実現をみるに至らなかった。
また、国民学校における教科の編成に大改革を行い、従来の教科を初等科では、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体練科(体操・武道、女子は欠くことができる)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・女子は裁縫を加える)の四教科に統合し、高等科ではこのほかに実業科(農業・工業・商業・水産)、女子には家事の科目を加えた。
文部省はこの国民学校令に基づいて、「国民学校令施行規則」を定めて、教育の目的を「教育ニ関スル勅語ノ趣旨ヲ奉体シテ、教育ノ全般ニ亘り、皇国ノ道ヲ修練セシメ、特ニ、国体ニ対スル信念ヲ深カラシムベシ」と明示した。また国民科については「我ガ国ノ道徳・言語・歴史・国土国勢等ニ付テ習得セシメ、特ニ国体ノ精華ヲ明ニシテ、国民精神ヲ涵養シ、皇国ノ使命ヲ自覚セシムル」こととして、これらの教科を重視した。これによって国民学校は皇国民育成の場として、団体訓練、精神力・体力の錬磨、勤労作業、出征軍人の激励・慰問などがしだいに強化されていった。
一九四二年以降になると、戦局が逆転して、南太平洋におけるわが軍の拠点は次々と奪回され、ついに米軍機の本土空襲をみるようになって、本土決戦体制に追いつめられ、一億玉砕の声も聞かれるようになった。この非常事態に対し、政府は四五年三月に「決戦教育措置要綱」を発令し、つづいて五月には「戦時教育令」を公布し、全学徒を国民防衛の一翼とし、学校ごとに学徒隊を組織し、食糧増産、軍需生産、防空防衛、その他直接、決戦に緊急な業務に総動員することとした。またこの目的達成のため、国民学校初等科を除き、すべての学校における授業は四五年四月から翌年の三月に至る期間、原則として停止することを決めた。
このころ本市の国民学校において、高等科二年男女は四四年九月から、日立製作所笠戸工場、東洋鋼鈑下松工場、笠戸船渠笠戸造船所等に学徒動員された。また他の児童は食糧増産、勤労奉仕(麦刈り・田植・稲刈りなど)、軍需資材の採集(ひま・ちがや・彼岸花球根など)等に協力し、少国民として健気に挺身した。とくに食糧増産については、校外に開墾地を作るほか、校内でも児童の集合場所を残して運動場や空地を掘りおこし、児童の集めた刈草・落葉・馬糞などを堆肥として、甘藷・馬鈴薯・かぼちゃなどを裁培し、家庭配給や供出に協力した。また公集国民学校では、塩の不足を補うため、西開作塩田沖で塩づくりに着手するという特異な例もみられた。