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俳壇の発展

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 一八二二年(文政五)切山の大木助之進が写した俳句一二条口伝等控一冊の記録が残されており、この時代から慶応、明治にかけて俳句は全市域に普及し盛んになった。
 著名な俳人に柳美濃与衛門がいた。徳山藩士で下松本町付近に居住し、号を五柳井と称した。美濃派北方に属する徳山の哺雪仙の系統を継いだ初代其山坊の後を受けて二代目を継承し、俳句の普及・発展に尽力した。また、そのかたわら柳簑左衛門として下松に寺子屋を開業し、庶民の教育にも意を注いだ。
 当時下松地方には、武士の系統と庶民の系統の二つの俳壇があった。武士の系列には平田の沓屋天香(純助)がおり、庶民の系列には末武南の高橋方外(信助)、下松の藤田美水、平田の田村夢想、平谷金波らが活躍していた。金波は一八七七年(明治十)ごろから作句し、俳句誌「和合楽」を発刊した。このため一町歩余りの田畑・身代を犠牲にしたと伝えられている。このほか隅田晴月・相本弥生・下村庭遊・岩瀬庭月・下村みつ女らも俳人として名を成していた。
 この時代には俳諧のほかに、浄瑠璃・義太夫も広く普及し盛んであった。