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学術に貢献した人々

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 近世後半から明治・大正の時期に、本市域出身で他郷に出て、学術の上で活躍した著名な人に、飯田柔平、弘鴻、永地秀太がいる。
 飯田柔平(いいだじゅうへい) 一七七二年(安永元)西豊井の蘭医飯田元敬の長男として生まれた。一七歳のころ弟秀輔と当時、蘭学・医学で一世を風靡(び)した大坂の緒方洪庵塾に入門し、若くして塾頭に抜擢され全塾生を統轄するとともに教授にも当たっていた。
 その後さらに、学術の奥義を極めんとして、江戸遊学を志したが実現に至らず、郷里下松に帰り医業のかたわら蘭学の研鑚に専念した。帰郷後間もなく病床に伏する身となり、一八〇四年(文化元)、三三歳の若さで他界した。一八六七年(慶応三)に開業した飯田柔平塾は、初代柔平の妹サダに迎えた養子が柔平と改名して医業を継ぎ、あわせて寺子屋を開いたものである。
 弘鴻(ひろひろし) 弘家は萩藩士で代々花岡に住み御番所詰を勤めた家柄で、一八二九年(文政十二)六月、八右衛門を父として生まれ、亀太郎と名づけられた。その後、忠助、市太郎通光と名を改め、さらに長じては鴻之丞、鴻と名のり、号を円斉・尋石と称した。
 生来、数学の天分に恵まれ向学心に燃え、広く各地に師を求めて、和算・暦法・星学・洋算・測量術・国学・蘭学を学んだ。六六年(慶応二)に藩命によって吉敷・厚狭の測量にあたり、七一年(明治四)には電信創設にさいし、英人ラルキンとともに線路の測量に従事した。
 また、六六年徳川幕府の第二次長州戦争によって萩藩は四境を封鎖され、農漁業に必要であった伊勢大神宮司専管の伊勢暦が入手できなくなったので、略暦「種蒔の栞(たねまきのしおり)」を推考、上申し、藩によって一般に頒布された。
 教育者としては、六六年に山口明倫館の助教に召し出され、六八年(明治元)には教授となり、その後引続いて山口中学校・山口師範学校で教鞭をとった。八四年、教職を辞して山口後河原に私塾白文舎を開いて子弟の教育に当たってきたが、一九〇三年(明治三十六)一月、七五歳で他界した。のち、師の徳を慕う門弟たちによって、一四年(大正三)に生地花岡の閼伽井坊境内に弘鴻の記念碑が建立された。

弘 鴻翁之碑

 著書は数学・測量・国学の広範囲にわたり、つぎのように大量に及んでいる。『算法小学』前編後編各八冊(後編四冊は原稿のまま未刊)、『珠算新式』十冊、『詞の橋立』四冊、『量地必携』一冊、『五十連字解』一冊、『洋算例題答解』一冊、『歌集阿ら玉』一冊、ほかに未刊のもの六稿本。このほかに、測量器機として割円儀割方儀(測量器)二台、視経儀(懐中測量器)を発明した。
 永地秀太(ながとちひでた) 一八七三年(明治六)七月、末武中村西河原の有吉三郎太の次男として生まれ、一九〇三年(明治三十六)に吉敷郡大内村の永地家の養子となる。生来、画才に秀で、中村小学校を経て徳山中学校に進学し、同校卒業後絵画の道を志して上京、明治美術会教場に入門して松岡寿(黒田清輝の弟子)に師事し修業に励んだ。
 一九一三年(大正二)の文部省美術展覧会において三等賞を受賞して中堅画家として活躍、その後、太平洋画会・国民美術協会の理事を歴任した。また防長美術会の設立にも尽力して、その評議員となり、本県画壇の発展に大きく貢献した。一九年から翌年にわたって文部省の命によりフランス・イタリヤの美術を視察研究し、帰国後、恩師の松岡寿が校長であった東京高等工芸学枚の教授に迎えられ、帝展の審査員をも兼ねた。二四年下関市の委嘱によって下関春帆楼における日清講和談判の壁画を制作し、明治神宮聖徳記念絵画館へ奉納した。このほか、代表作に「肌」「壁による女」「でりしゃす」「徐州会見」などがあり、母校中村小学校には「明治初期の中村校」「宮城二重橋」の二点が寄贈されている。四二年(昭和十七)十二月、東京の自邸で病没した。